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スーパークリーク列伝~大河の流れはいつまでも~

『やがて大河となるために』

 そんなナイスデイの子に現れた救い主が、栗東の調教師・伊藤修司師だった。
 
 伊藤師は、最初騎手として競馬界に飛び込み、騎手としては通算150勝をあげた。その勝利の中には、チトセホープのオークス、シーザーの宝塚記念といった大きなレースでのものも含まれている。

 しかし、伊藤氏が本当に一流のホースマンとして頭角を現したのは、むしろ騎手から調教師に転進した後のことだった。1963年に調教師だった父の死によって厩舎を引き継いだ伊藤師は、マーチスで皐月賞を勝ったのを手始めに、大きなレースを続々と勝ち始めた。障害の帝王グランドマーチスや、「華麗なる一族」として知られるハギノトップレディ、ハギノカムイオーも手がけ、4年連続リーディングトレーナーに輝き、当時の関西を代表する名伯楽と評価を受けていた。
 
 そんな伊藤師は、もともと庭先取引のために柏台牧場にやって来た段階から、ナイスデイの子に強い関心を示していた。最大の問題点は脚の欠陥だったが、伊藤師は過去に同じような欠陥があったハギノトップレディを走らせた経験があり、致命的なものではないと考えていた。

 庭先の段階では、様々な事情があって、話がまとまらなかった。しかし、伊藤師は、ナイスデイの子のことを忘れてはいなかった。かつて目を付けていたナイスデイの子がセリで二度も売れ残ったと聞いた伊藤師は、
 
「これほどの馬を競走馬にさえできないのはもったいない」
 
ということで、知り合いの馬主にかけあって、ぜひこの馬を競り落としてもらえるよう話をつけたのである。

 そんな伊藤師の尽力もあって、競走馬になるための最後のチャンスといっていい2歳秋のセリで、ようやく買い手が決まった。お台として設定された800万円から10万円だけ上乗せされた810万円の競落価格は、「馬が作る端から売れていく」と言われたバブル時代に生まれた競走馬としては、かなり安い部類に入るものだった。

 何はともあれ、伊藤厩舎から中央競馬へデビューすることになったナイスデイの子は、「スーパークリーク」という競走名を与えられて、戦いの世界へと身を投じることになった。

 スーパークリークという競走名の由来は、建前は「最初は小川(creek)でも、やがて大河となるように」という意味であるとされているが、一説によれば、馬主がこの名前を思いついたのはゴルフ場で、たまたまその時その時握っていたクラブが5番ウッド、別名「クリーク」だったからだとか、ボールを小川(クリーク)に打ち込んでしまったとか言われている。

『地に潜む大器』

 伊藤師は入厩当初から、スーパークリークは距離が伸びていいタイプであると考えていた。伊藤師は、スーパークリークのデビュー戦を決めるにあたっても、新馬戦に多く組まれていた距離の短いレースには見向きもせず、芝2000mのレースを選んだ。これは、スーパークリークをクラシックや天皇賞を狙える中長距離馬に育てたいという伊藤師の強力な意思表示にほかならなかった。
 
 ところで、武豊騎手とのコンビの印象が強く、ややもするとデビューから引退まで武騎手とコンビを組んでいたかのような誤解さえしてしまいやすいスーパークリークだが、デビュー当初に騎乗していたのは、武騎手ではなく田原成貴騎手だった。
 
 この時期のスーパークリークは、慢性的なソエに悩まされていたことから、なかなか思うような競馬をすることができなかった。2戦目で初勝利をあげたところで3歳戦を終えたスーパークリークは、明け4歳になると福寿草特別、次いで南井克巳騎手に乗り替わって格上挑戦のきさらぎ賞(Glll)へと進んだものの、いずれもマイネルフリッセの前に4着、3着と終わった。このマイネルフリッセは、スーパークリークの誕生に関わった岡田繁幸氏が起ち上げたクラブ馬主の所有馬であり、鞍上にいたのは、後に主戦となる武騎手だった。マイネルフリッセは、やがてスーパークリーク自身の馬生にも大きく関わってくることになる。

『この馬の持ち味』

 とはいえ、ソエに苦しみながら格上挑戦で挑んだ重賞のきさらぎ賞で3着に入ったことは、現時点でも、スーパークリークの実力が一線級に通用するのではないか、という期待を抱かせるものだった。
 
「距離がもっと伸びてくれば…」
 
 もともとそんなスーパークリークの将来像を描いていた伊藤師は、この時、春の大目標として、はっきりと日本ダービー(Gl)を意識した。

 時期からすれば、ステップレースから皐月賞(Gl)を目指すことも不可能ではない。しかし、この時点でのスーパークリークは、まだ1勝馬に過ぎない。このローテーションでに進んだ場合、ステップレースや皐月賞の結果次第では、日本ダービーへの出走自体が難しくなる可能性も否定できなかった。

「皐月賞よりもダービーを・・・!」

 そう考えた伊藤師は、スーパークリークを皐月賞のステップレースではなく、この時期にはまだ少ない2200mのレースであるすみれS(OP)に向かわせることにした。それまで2000mのレースばかりを選んで走ってきていたスーパークリークにとって、それは、明らかにダービーを意識したローテーションだった。
 
 すみれS当日、スーパークリークは、初めて鞍上に武騎手を迎えた。「ターフの魔術師」と呼ばれた武邦彦騎手・調教師を父に持ち、1987年3月に騎手としてデビューしたばかりの武騎手は、数日前に19歳になったばかりの2年目に過ぎなかったが、87年には69勝を挙げ、新人賞を獲得するどころかJRAの新人騎手の最多勝利記録を樹立した(2008年に三浦皇成騎手が91勝を挙げて更新)武騎手は、はや「天才」という名を確かなものとしつつあった。

 もっとも、そんな武騎手は、レース前に伊藤師から
 
「ちょっと脚を痛がっているから…」
 
と言われたため、そのことを気にしながらスーパークリークに実際に乗ってみたところ、馬も明らかに右前脚を気にしていた。そのため、

「こんな様子では、無事に回ってこれればいいな」

という程度の認識でレースに臨んだという。・・・ところが、実際のレースになってみると、スーパークリークは一変した。道中よく折り合った上で、直線で武騎手が軽く追うと、もの凄い伸びを見せたスーパークリークは、パワーウイナーを半馬身抑えて優勝したのである。
 
 武騎手にとって、この日のレースはうれしい誤算だった。まともに回ってこれるかどうかをまず心配していたレースで、これほどの走りを見せた逸材に、若き天才騎手はすっかり惚れ込んでしまった。
 
「この馬は他人に渡したくない」
「この馬でダービーへ行きましょう」
 
と怪気炎をあげた彼は、スーパークリークの中に、これまでに乗ってきた多くの馬たちとは明らかに違う何かを感じ取っていた。
 
 何はともあれ、スーパークリークは、この時点で2勝馬になった。この年の皐月賞出走のボーダーラインは2勝であると言われており、2勝馬となったスーパークリークは、そのうち1勝がオープン特別のすみれSであるため、皐月賞は、登録しさえすれば出走がほぼ確実な情勢となったが しかし、伊藤師は、皐月賞には見向きもせず、目標を日本ダービーに絞った。距離が伸びて持ち味を発揮したすみれSの競馬は、皐月賞より日本ダービーへの希望を感じさせるものだったからである。

『いまだ時を得ず』

 ところが、運命とは皮肉なものである。皐月賞を回避してまで目指した日本ダービーの舞台に、スーパークリークが立つことはなかった。ダービートライアルの青葉賞に向けた追い切りの際に、スーパークリークは左前脚を骨折してしまったのである。
 
 スーパークリークは、生まれながらの脚部のゆがみゆえに、慢性的な脚部不安と戦い続けなければならない宿命を背負っていた。サラブレッドのガラスの脚は、その能力が高ければ高いほどかかる負担も大きくなる。スーパークリークの脚のゆがみは、その負担をさらに増幅するものだった。しかも、スーパークリークは脚に痛いところがあっても、人間にはそれを隠して走ろうとする馬だった。スーパークリークの並はずれた賢さが、人間たちに心配をかけまいとさせたのだろうか。

 この時の骨折も、ソエが発生していた右前脚をかばって走っているうちに、反対側の脚に余計な負担がかかってしまったための故障だった。

「まさか、こんなひどい状態だったなんて・・・」

 周囲の人間たちがスーパークリークの本当の状態を知るのは、いつも彼が隠しきれなくなるほどに症状が悪化した後のことだった。
 
 スーパークリークは、3歳暮れにデビューしてから6歳秋で引退するまでの約3年間にわたる現役生活の中で、わずかに16戦しか走っていない。これも、すべては彼の脚部不安ゆえだった。
 
 こうしてスーパークリークは、その実力と器の大きさの片鱗を見せた直後のアクシデントによって、日本ダービーを棒に振ってしまい、もうしばらくの雌伏の時を過ごすことを強いられた。大器が世に大きく羽ばたくためには、まだ天の時を得ていなかった。

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