TOP >  年代別一覧 > 1980年代 > ウィナーズサークル列伝~芦毛の時代、未だ来たらず~

ウィナーズサークル列伝~芦毛の時代、未だ来たらず~

『さても遠き道のり』

 ウィナーズサークルが初勝利を挙げたのは通算4戦目で、芝からダートへ替わっての未勝利戦だった。時は既に4歳の1月を迎えていた。

 しかも、その後はダートで走ったウィナーズサークルだが、その悪癖は直ることなく、勝利も相変わらず縁遠いままだった。そのことの背景には、郷原騎手の方針もあった。ウィナーズサークルの能力を考えれば、後方から一気に差し切る競馬をやれば、かなりの確率で勝てる。しかし、それでは他の馬を抜くことを嫌がることの改善にはつながらない・・・。郷原騎手は、あくまでも先行抜け出しにこだわることで、ウィナーズサークルに競馬を教えようとした。彼を信頼して馬を任せた松山師も、そんな方針に対して何も苦情を言うことはなかった。

 そんな郷原騎手や松山師の苦労をよそに、ウィナーズサークルは相変わらずだった。初勝利の後も2着が続いた彼が、通算7戦目にしてようやく2勝目を挙げた時、皐月賞はもう1ヶ月後に迫っていた。これでは、皐月賞トライアルにはもう間に合わない。

 その年のクラシック戦線の出走予定の状況をみると、平場2勝でも皐月賞(Gl)には抽選に加われそうではあったものの、日本ダービーはさすがに苦しい情勢だった。松山師は、ウィナーズサークルのデビュー前から、日本ダービーを大目標に据えていた。出走できさえすれば日本ダービーでも好勝負になる、という思いに変わりはない。しかし、出走できなければ、そもそもお話にもならない。

 そして、ウィナーズサークルが2勝馬ながら抽選を突破し、皐月賞の出走ゲートにたどり着いた時、それまで郷原騎手を信頼し、レース前の指示も出さずに馬を任せていた松山師は、ついに郷原騎手に指示を出した。その指示は、

「とにかく(日本ダービーの)優先出走権(当時は5着まで)を獲ってくれ」

というものだった。

『混迷皐月賞』

 1989(平成元)年の皐月賞戦線は、本命不在の大激戦となっていた。その契機は、大本命とみられていた無敗の3歳王者サクラホクトオーが、皐月賞(Gl)を前にした不良馬場の弥生賞(Gll)での、見るも無惨な12着という惨敗である。かといって、彼に代わる本命馬は現れず、重要なステップレースは、レースごとに上位馬が入れ替わっていた。

 皐月賞当日にファンが単勝300円の1番人気に支持したのは、サクラホクトオーだった。彼は、3歳王者の復活に賭けた思いを託されたのである。・・・しかし、当日の中山競馬場芝コースの馬場状態は、雨模様の天気が続いたため、弥生賞同様にドロドロの不良馬場になってしまった。加えて、そうなると浮上するはずの弥生賞で大差勝ちを演じたレインボーアンバーは裂蹄で出走を取り消してしまった。これが空前の本命不在、戦国皐月賞の予兆だった。

 そんな中で、ウィナーズサークルは、デビューから7戦続けてきた1番人気を初めて逸する形で、単勝1620円の7番人気となった。重賞初挑戦が皐月賞、芝での勝利はなく2勝はいずれもダートという点を考えれば当然の結果でしかないが、松山師らは、ウィナーズサークルの状態に自信を持っていた。加えて、ダートコースと見間違えそうな最悪の馬場状態も、2勝をいずれもダートで挙げてきたウィナーズサークルにとっては、福音である。

 ウィナーズサークルは、中団のやや後ろ目につけてレースを進めた。彼は、人気薄ゆえに他馬にマークされることもなく自分のペースで戦える特権を、存分に行使していた。

 いったん開催時期に入ると毎週競馬に使われる競馬場だが、この日ほどに馬場が悪いGlは、そうそうあるものではなかった。各馬とも慣れない道悪に戸惑い、レースはパワーとスタミナの消耗戦となっていった。そんな中で直線に入って抜け出したのは、ホッカイドウ競馬出身でダート経験に恵まれたマル地・ドクタースパートだった。

 本来は後方一気の作戦を得意とするドクタースパートだったが、この日はいつもより前で競馬を進めていた。しかし得意の道悪を生かし、直線半ばで前にいた馬たちを交わして先頭に立つと、そのまま後続を突き放しにかかった。

『開花』

 直線半ばで一気に抜け出して後ろを突き放していくドクタースパートだったが、いつもより前で競馬をしたこともあり、最後には脚が止まった。もっとも、悪条件の中での戦いに消耗し切っていたのは、他の馬も同じことだった。彼の後ろにいた馬たちの脚もやはり止まっており、先頭にいるドクタースパートとの差を縮めることができない。観衆の誰もが「決まった」と思ったその時、次元の違う脚を使う1頭の白い馬が抜け出してくると、先頭を行くドクタースパートに襲いかかった。・・・それが、剛腕・郷原洋行とウィナーズサークルだった。

 もはやドクタースパートの脚が限界に達していることは、誰の目にも明らかだった。不良馬場とは思えない斬れ味で突っ込んできたウィナーズサークルの末脚に、人々は息を呑んだ。道営の雄、危うし!

 しかし、ウィナーズサークルが逆転で栄光をつかむためには、皐月賞の距離はわずかに足りなかった。ウィナーズサークルがドクタースパートをかわしたのは、ゴール板のわずかに向こう側だったのである。もし皐月賞が2000mではなく2010mのレースであれば、勝者は変わっていたかもしれない。だが、ウィナーズサークルは、敗れた。

 ただ、敗れたとはいえ、松山師や郷原騎手たちに悲観はなかった。血統的には距離が伸びてこそのタイプである。彼らは、それまでずっと先行して好位から抜け出す競馬をさせていたウィナーズサークルが、大舞台でついに垣間見せた実力の片鱗に満足していた。勝負はむしろ、日本ダービー。来たる日本競馬の最高峰へ向けて、彼らは激しく闘志を燃やした。

 松山師は、ダービーを前にして、以前も増して厳しい調教をウィナーズサークルに課した。ウィナーズサークルは、よくそれに耐えた。日に日にたくましくなるウィナーズサークルをみるにつけても、松山師はダービーへの自信を深めていった。

『素晴らしき一日』

 皐月賞がドクタースパートの優勝に終わると、クラシック戦線の関心は、日本競馬の祭典・日本ダービー(Gl)へと移っていった。しかし、この年は、皐月賞の後も「傑出馬不在の混戦」という評価に変わりはない。というより、皐月賞の時点で既に混戦といわれていたのに、その皐月賞も本命サイドとはいえない3番人気ドクタースパートと7番人気ウィナーズサークルで決着したことから、その色彩は、むしろ強まっていた。

 当時のダービーで、こうした時によく現れるのは、「関西の秘密兵器」という言葉である。関東馬の場合、皐月賞、ダービーとも地元だから、めぼしい馬は本番のステップレースを使う傾向にあるから、力関係が分かりやすく、ダービー前に未知数の有力馬が突然現れることは少ない。しかし、関西馬の場合は、地元のレースを使う馬と関東のステップレースを使う馬に分かれるため、前者は皐月賞組との力関係がはっきりしないまま本番に臨むことが多く、彼らに奉られるのが「関西の秘密兵器」という商号である。

 そして、「関西の秘密兵器」が特にもてはやされるのは、①絶対的な本命が皐月賞を圧勝して他の皐月賞組ではどうにもならないと思われる場合、②皐月賞が本命党には納得のいかない結果に終わり、「ダービーで同じ馬は来ないだろう」と予想される場合、のいずれかであることが多い。この年は、まさに②のパターンだった。

 日本ダービーを前に、マスコミは「秘密兵器」「上がり馬」「新興勢力」によって百花繚乱となり、評論家たちも

「24頭すべてに勝つチャンスがある」

と口を揃えざるを得ない雰囲気が漂っていた。

 その中で、ウィナーズサークルは、ファンによって単勝730円の3番人気に支持された。

 ちなみに、この年の1番人気は、目下3連勝中で、特に前走の若草S(OP)では2着馬を1秒4ちぎって東上してきた「関西の秘密兵器」ロングシンホニー、2番人気は鞍上が柴田政人騎手、父がクライムカイザーという渋い馬で、「柴政悲願のダービー制覇」「父子二代のダービー馬」が期待されたマイネルブレーブだった。単勝600円、610円というオッズではあっても人気上位の2頭は、いずれも皐月賞不出走である。ウィナーズサークルは、皐月賞馬ドクタースパートを凌いで皐月賞組の中で最も高い評価を受けたことになる。

「皐月賞を勝ったのはドクタースパートだったが、最も強い競馬をしたのはウィナーズサークル・・・」

 そんな声に推されたウィナーズサークルは、松山師の仕上げにより、究極の仕上がりを見せていた。

 4歳春にしてはあまりに白い馬体を持つウィナーズサークルは、こうして歴史的な一日を迎えることになる。

『豪脚爆発』

 ウィナーズサークルは、日本ダービーのスタートとともに、勢い良くゲートを飛び出した。スタート直後の第1コーナーではまったく無理することなく3、4番手につけ、皐月賞の再現を狙って手綱を抑える郷原騎手の指示に逆らうこともなく、折り合いをつけながら中団へと下がっていく。

 第4コーナー辺りで馬たちが直線へ向けて一斉に広がると、各馬の騎手たちは、ここが勝負どころ、とばかりにムチを入れて仕掛けていった。しかし、郷原騎手はまったく動じない。もともと追い込みを得意とする郷原騎手である。ウィナーズサークルの末脚をためにためて府中の長い直線で炸裂させれば、負けるはずがない。そう信じていた。

 まず直線で先頭に立ったのは、NHK杯(Gll)2着馬のリアルバースデーだった。リアルシャダイを父に持ち、スタミナに自信を持つこの馬は、スタートから終始先行して好位につけ、そのまま逃げ込みを図ったのである。しかし、その外からはウィナーズサークルが、馬群を抜けて勢い良く上がってきた。

 リアルバースデーも懸命に抵抗したが、満を持して仕掛けたウィナーズサークルをさらに差し返すだけの力は、もう残っていなかった。大外、ウィナーズサークルのさらに後ろからは、機を窺っていたサーペンアップも追い込んできたものの、父譲りのスタミナを持つウィナーズサークルの脚色が衰えることはなかった。

 ウィナーズサークルは、2着リアルバースデーに半馬身差をつけて栄光のゴールへと飛び込んだ。第56代日本ダービー馬ウィナーズサークルの誕生である。彼は、日本最大のレースで、自分自身の名にふさわしい場所・・・ウィナーズサークルに立つ資格を勝ち取ったのである。

 ウィナーズサークルを導いた郷原騎手にとって、日本ダービー制覇はオペックホースに続く2度目だった。彼が最初に日本ダービー制覇を果たした時は、シーホーク産駒の大本命モンテプリンスの足下をすくっての優勝であり、シーホークが「ダービー馬の父」の栄誉を得ることを阻止している。そんな彼が、今度はシーホークに「ダービー馬の父」の栄誉をもたらしたのだから、運命のめぐり合わせは面白い。

 ちなみに、この日は競馬学校の研修のため、騎手を目指す少年たちが東京競馬場を訪れていた。そして、レースを見守った少年たちの中には、郷原騎手の次男がいた。騎手を目指す息子が見守る中で、父は騎手としての最高の栄誉を手に入れた。ちなみに、郷原騎手の次男とは、その後競馬学校騎手課程を無事卒業し、後に騎手となった郷原洋司・現調教助手である。

『千分の三の奇跡』

 ウィナーズサークルは、日本ダービーの56回の歴史の中で、初めての「芦毛のダービー馬」となった。ウィナーズサークルの「初めて」は、それだけではない。茨城の栗山牧場で生まれたウィナーズサークルだが、これが牧場初のJRA重賞制覇であった。

 さらに、茨城県産のダービー馬も、史上初である。当時の日本では、年間約1万頭のサラブレッドが生まれていたといわれる。だが、そのうち茨城県で生まれたのは、ウィナーズサークルを含めてたったの34頭しかいなかった。絶対数が少ないだけでなく、土地が狭く、優秀な種牡馬も繋養されていない茨城県の牧場で生まれた馬が、日本競馬の頂点に立ったのだから、これほど痛快なことはない。

 栗山牧場の生産馬がダービーへ進むのはこれが4回目だったが、当然のことながら、制覇は初めてでだった。馬産界、特に、北海道以外で馬産に関わる人々にとって、この快挙がもたらした喜びは大きかった。まさに、確率でいうなら千分の三以下でしかない奇跡が現実のものとなったのである。

 また、ウィナーズサークルが成し遂げた奇跡は、茨城県産という点のみにとどまらなかった。かつて「走らない」と嫌われていた芦毛馬のクラシック制覇は、77年菊花賞を制したプレストウコウ以来の2頭目であり、日本ダービー制覇に至っては、ウィナーズサークルが史上初めてのことだった。

 さらに、ウィナーズサークルは、通算3勝目を日本ダービーで飾ったが、それまでの2勝はいずれもダートコースでのものである。芝での初勝利が日本ダービーという点も、日本史上初めてとなる快挙だった。

 いくつもの奇跡に彩られ、ウィナーズサークルは日本ダービーという日本競馬の最高峰に立ち、その栄誉をかみしめた。

「ミスターシービーの時は、ホッとしたという気持ちが強かったが、今度は・・・すこぶる新鮮な喜びと言ったらいいのかな」(松山師)

 そんな感想が飛び出すほどに幸せな時を過ごした関係者たちだったが、悲しいかな、それがウィナーズサークルにとって最後の勝利となることを、彼らはまだ知る由もない。

1 2 3
TOPへ