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オグリローマン列伝~約束された奇跡~

『名血を証明するために』

 小栗氏の気持ちに応えるかのように、79年に初子を産んだホワイトナルビーは、94年に最後の産駒を送り出すまでの16年間で15頭の産駒を送り出し、そのすべてが競走馬としてデビューした。

 ところで、オグリキャップを語る場合に出てくるのが「三流血統」「雑草」といった出自への評価である。実際、オグリキャップを語る際には、「地方出身」という点と並んで、この言葉が頻繁に使われてきた。父のダンシングキャップだけでなく、母のホワイトナルビーも含めて、彼の血統的価値が非常に低く見積もられていたことは否めない。

 ただ、その評価が本当に正当なものだったのかどうかは、再考する余地がある。ホワイトナルビーの牝系は、1925年に豪州で生まれた6代母のシユリリーに遡る。日本に輸入されたシユリリーは2頭の牝馬を残したが、そのうち姉にあたる第一シユリリーの系統はかなりの繁栄を見せ、娘のクインナルビーは、1953年の天皇賞・秋を境勝太郎騎手の騎乗で制したのをはじめ、同年の天皇賞・春2着、52年の桜花賞、日本ダービー、菊花賞、51年の阪神3歳Sで3着に入るなど、通算44戦17勝、生涯一度も掲示板を外さない実績を残している。

 1990年時点で既に春秋をあわせて102回を数えていた天皇賞を制した牝馬は、春2頭、秋10頭の計12頭しかいなかった(その後、エアグルーヴ、ヘヴンリーロマンス、ウオッカ、ブエナビスタ、アーモンドアイ×2回が加わっている)。そんな栄光ある12頭のうちの1頭であるクインナルビーの「孫の孫」にあたるホワイトナルビーを、果たして「雑草」「三流血統」などと評してよいものか。

 「天皇賞を勝った牝馬の玄孫」というホワイトナルビーの血が、「雑草」「三流血統」などという言葉で片づけられるのは、彼らにとって、不本意以外の何物でもなかった。そして、彼らはひとつの決意をしていた。

「ホワイトナルビーの子からもう1頭、大きいところを勝てる馬を送り出そう…!」

 それは、オグリキャップの実績を「まぐれ」のようにとらえる世間に対し、ホワイトナルビーやその一族の価値を正当に評価してもらうための誓いだった。

『今一度の夢を』

 オグリキャップに関わった人々の協議の結果、選ばれた種牡馬は、プレイヴェストローマンだった。プレイヴェストローマン自身は25戦9勝、主な勝ち鞍がサラナックS(米Gll)程度であり、種牡馬としてそこまで大きな期待を集めていたわけではなかったが、産駒がデビューしてみると、ダートを中心に手堅く稼ぐ産駒を輩出するばかりか、1984年のオークス(Gl)を制したトウカイローマン、87年の桜花賞(Gl)とオークスを制したマックスビューティという2頭の芝の大物…クラシックホースを出すなど、極めて優れた種牡馬成績を残している。

 笠松デビューを前提としたダート適性、さらにJRA移籍後の芝への対応力という両面から、プレイヴェストローマンは彼らの需要を完璧に満たす種牡馬だった。

 オグリキャップの活躍の後、ホワイトナルビーの交配相手の傾向は明らかに変わっている。初期の交配相手は比較的安価な種付け料で、ダートの短距離に向いた種牡馬が選ばれていたが、オグリキャップの活躍以降は、種付け料が高く、芝やある程度の距離にも対応できる種牡馬が選ばれるようになっていた。

 これは、JRAの馬主資格を持っていなかったためにオグリキャップを手放さなければならなかった小栗氏が、89年7月にJRAの馬主資格を取得したためである。それまで所有馬を第三者に売ったことがなかったという小栗氏だったが、オグリキャップが頭角を現した際、

「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか?そうではなく、日本のオグリキャップにしましょう!」

という「殺し文句」に負け、JRAへの転厩のためにオグリキャップを手放した。そんな小栗氏がJRAの馬主資格を取得したということは、自身の所有馬を手放すことなくJRAへ転厩させることが可能になったことを意味する。そのためには、笠松で強ければいいということではなく、JRAの競馬にも対応できる血統が望ましい。

 ただ、ホワイトナルビーとプレイヴェストローマンとの交配が、そうすんなりと実現したわけではない。オグリローマン陣営がプレイヴェストローマンの種付け権を手に入れようと動き始めたころ、650万円だったはずの種付け権は、種牡馬成績の好調さによって、市場から既に払底していたのである。

 最終的に、彼らがプレイヴェストローマンの余勢株を手に入れるために支払った金額は、850万円だったという。費用の高騰は痛かったはずだが、稲葉氏いわく、オグリキャップが稼いだ賞金のおかげでなんとかなったという。

『踏み出した第一歩』

 翌91年5月20日、プレイヴェストローマンを父とするオグリローマンは、ホワイトナルビーの12番目の子として生まれた。オグリキャップの妹にあたる彼女の血統名は、「アイカナ」とされている。

 幼駒時代のアイカナは、いつも1頭でおとなしくしており、手のかからない馬だったという。牧場で幼駒を見せるときには、売るためにけなすわけにはいかない一方で、高値になりすぎると「騙された」と後でクレームを言われるという別の問題も生じることから、露骨にほめることも少ないというのが稲葉牧場の流儀とのことだが、アイカナについては、馬を見に来た鷲見師や瀬戸口師をはじめとする多くの人々から

「いい馬やーいい馬やー」

とほめてもらえたという。

 やがて「アイカナ」は、兄姉がそうだったように、小栗氏の所有馬として笠松の鷲見厩舎からデビューすることになった。小栗氏がその気になれば、笠松を経ず、最初からJRAでデビューさせることも可能だったかもしれないが、小栗氏に長年の盟友を裏切る気はなかったようである。

 もともと小栗氏は、オグリキャップが登場する以前にもJRAの馬主資格の取得を勧められたことがあったが、

「鷲見(師)がかわいそうだから…」

と断っていたくらいである。結局、オグリキャップの弟妹たちは、92年生まれのオグリルションを除いて、すべて鷲見厩舎からデビューしている。

 また、オグリキャップの活躍を見ながら小栗氏が後悔したのは、

「クラシック登録をしてあげればよかった…」

という思いだった。その苦い思いを踏まえ、オグリキャップの時にはしていなかった所有馬のクラシック登録をするようになっており、オグリローマンについても同様だった。

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