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オグリローマン列伝~約束された奇跡~

『兄に続け』

 「アイカナ」ことオグリローマンがデビューを待つ間も、競馬ファンは彼女の兄姉…オグリキャップの弟妹たちに注目していた。中でも91年デビューのオグリホワイト(父サンシャインボーイ)は、笠松でジュニアGPなどを勝った後、92年初頭にJRAの瀬戸口勉厩舎へ移籍してチューリップ賞(OP)、忘れな草賞(OP)に出走している(いずれも7着)。この時、オグリホワイトに笠松で3度対戦して一度も勝てなかったトミシノポルンガは、オグリホワイトがいなくなった4歳戦線で東海ダービーやダービーグランプリを制し、古馬となってからも交流重賞の常連として活躍した。

 そんな背景があったため、オグリローマンの動向に対するマスコミやファンの注目度は高かった。「オグリキャップの妹」という「良血」に注目してのことだが、「三流血統」「雑草」などと呼ばれていいたはずのオグリキャップの妹が、兄の実績ゆえに「良血馬」として注目を集めるというのも、ある意味で奇妙なことではある。

 閑話休題。オグリローマンは、笠松ダート800mの新馬戦でデビューすることになった。鞍上も、笠松時代の兄と同じ安藤勝己騎手が用意された。オグリキャップがデビューした87年で「9年連続笠松リーディングジョッキー」だった安藤騎手の実績は、この時点で既に「15年連続」に伸びていた。

『伝説を越えろ』

 そして、安藤騎手とともに臨んだデビュー戦を、オグリローマンは49秒5で走破し、6馬身差の圧勝を飾った。オグリキャップも笠松のダート800mのレースを5戦走っている(3勝)が、最も速いタイムは49秒7だったから、オグリローマンは、デビュー戦でいきなり偉大な兄を上回る時計を叩き出したことになる。展開や馬場状態の違いがあるといっても、競馬サークルが震撼したのはやむを得ない話である。

 さらに、オグリローマンの快進撃は、その後も続いた。2戦目となる新馬戦と同じ笠松ダート800mの一般戦では、着差こそ4分の3馬身差にとどまったものの、勝ちタイムは49秒2と、新馬戦をさらに上回った。

 3戦目の秋風ジュニアこそ、笠松ダート1400mと一気に距離が600mも延びたことで戸惑いがあったのか、マルカショウグンの2着と不覚をとったものの、次走のジュニアクラウンでは、同じマルカショウグンを下して雪辱を果たした。内容的にも、不利を受けて後方からの競馬を強いられながら、勝負どころであっさり抜け出す王者の競馬であった。

 その後のオグリローマンは、プリンセス特別、ゴールドウイング賞、そしてジュニアグランプリと後続を寄せつけない勝ちっぷりで優勝を重ね、93年を7戦6勝で終えた。笠松在籍時に12戦10勝の戦績を残した兄に引けを取らない立派な成績である。

『中央への道』

 こうして「笠松最強3歳馬」の名を不動のものとしたオグリローマンに、JRA移籍の話が持ち上がるのは、当然の話だった。移籍先は、オグリキャップと同じ瀬戸口勉厩舎である。

 JRAの馬主資格を取得した小栗氏は、自身の所有馬となるべき馬のクラシック登録をするようになっており、前記のオグリホワイトも、JRA移籍後に目指したのはクラシックへの出走だった。

 小栗氏からオグリローマンのJRA移籍を相談された鷲見師も、快く応じた。オグリキャップが移籍した時にはいろいろ思うところがあったという鷲見師だったが、オグリキャップが小栗氏の願った通り…というよりそれ以上の活躍を見せて全国区の存在となり、笠松競馬も大きくクローズアップされたことで、わだかまりは消えていた。そもそもオグリローマンのころに、交配の段階でJRAへの挑戦の可能性も見込んで相談を受けていたことは、前述したとおりである。オグリホワイトがJRAのクラシック出走を果たせなかった後には、鷲見厩舎へと再転厩して笠松へ戻ってきたなどの積み重ねもあって、瀬戸口師との信頼関係もできていた。

 ただ、安藤騎手は、

「いつものことですから、覚悟はしていました」

と、やや含みのあるコメントを残している。地方所属馬が地方在籍のままJRAのクラシックに挑む道が拓かれ、安藤騎手がライデンリーダーでその道に挑むのは、その1年後のことである。

 なお、2歳上の半兄オグリトウショウ(父トウショウボーイ)も、それまでずっと笠松で走っていたが、オグリローマンとほぼ時を同じくしてJRAへ移籍することになった。しかし、その受け入れ先が瀬戸口厩舎ではなく武邦彦厩舎だったことが、オグリローマンの戦いにほんの少し影響することになるが、それはまた後日のお話である。

『浪漫を託されて』

 オグリローマンのJRA転厩というニュースは、やがて競馬界を駆け巡った。

「あのオグリキャップの妹がやってくる・・・」

「戦績も、タイムも、兄に負けないレベルらしい・・・」

ということで、このニュースは栗東にとどまらず、競馬界、そして競馬マスコミにもたちまち広がっていった。

 オグリキャップの引退から3年強、競馬界にいくつもの伝説を残した不世出の名馬の記憶は、いまだに薄れていない。その妹が、7戦6勝、重賞4勝の実績を引っ提げて、兄と同じ笠松からクラシック戦線へ乗り込んでくるという。…前年のオグリホワイトも似たようなシチュエーションではあったが、笠松時代の実績は明らかにオグリローマンの方が上である。

「オグリローマンは、どれほどの器なのか…?」

 競馬にかかわる人々の多くが、かたずを飲んでオグリローマンを見守るようになったのも、無理のないことだった。

 やがて、オグリローマンのJRAでのデビュー戦は、1994年2月19日、阪神競馬場のエルフィンS(OP)と発表された。このレースが行われる阪神芝1600mといえば、オグリキャップがJRA転入初戦に選んで3馬身差の圧勝でベールを脱いだペガサスS(Glll)、そして2ヶ月後の桜花賞と全く同じ舞台である。オグリローマン陣営の人々がエルフィンSの先に見ているものは、明らかだった。

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