サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~
1987年4月10日生。2004年4月5日死亡。牡。黒鹿毛。中村幸蔵(浦河)産。
父シーホーク、母テスコパール(母父テスコボーイ)。加藤修甫厩舎(美浦)
通算成績は、8戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、共同通信杯4歳S(Glll)。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
『雨に泣いたサラブレッド』
全国高校野球選手権大会・・・日本の夏の風物詩であり、「夏の甲子園」として親しまれる高校野球の最高峰は、過去の歴史の中で多くの伝説を残してきた。
そんな「夏の甲子園」の歴史の中で、特に異彩を放つ名勝負がある。それは、1973年夏、第55回全国高校野球選手権大会2回戦の銚子商業対作新学院である。
栃木代表・作新学院には、絶対的なエースがいた。江川卓、18歳。23連勝という破竹の勢いのまま臨んだ同年春の選抜高校野球選手権大会では、高校生という域をはるかに超えた剛球を武器に三振の山を築き、わずか33回で60奪三振という大会記録を作りながらも、準決勝で対戦した名門・広島商業のダブルスチールという奇策で焦った味方の悪送球により、決勝点を奪われて敗れ去った悲運のエースを、人々は「怪物」と呼んだ。
その「怪物」は、5ヶ月後に再び甲子園へと還ってきた。県予選5試合を被安打2、失点0、奪三振75、無安打無得点試合3回という驚異的な戦績で勝ち抜き、1回戦の柳川商業戦も延長15回を投げ抜いて23三振を奪い、1対0で勝ち上がった1人の少年に、日本国民は熱狂した。第55回全国高校野球選手権大会は、さながら「江川のための甲子園」と噂されていた。
だが、やはり好投手を擁する銚子商業との戦いは、激しい投手戦となった。スコアボードに延々と繰り返される「0」。投手がいくら好投しても、点を取れなければ勝利はない。そして0対0のまま迎えた延長12回裏、江川は一死満塁の危機を迎える。打者のカウントは、ツーストライク・スリーボール。この日の甲子園球場は、試合途中から降り始めた雨にけぶっていた。雨に濡れて思いのままにならない足場とボールに悩み、
「フォアボールを出してしまうかもしれない」
と弱音を吐いた江川投手に対し、マウンドに集まった内野手たちは
「お前の好きな球を投げろ」
と励ました。そして・・・江川が投じた最後のボール、渾身のストレートは無情にも高めに外れ、怪物の甲子園、そして高校最後の試合は、終わった。
試合後、敗戦の悔しさをかみしめる間もなく報道陣からマイクを向けられた江川は、
「力の差です。雨で球が滑ったのではありません。コントロールがないのです」
と答えた。だが、それが事実ではないことは、誰よりもファンが知っていた。「ちいさい秋みつけた」など多くの童謡の作詞者であるとともに、雨を愛する詩人として、雨を題材とする多くの詩を詠ってきたサトウハチローは、この試合の翌日、スポーツ紙で
「わたしは雨を愛した詩人だ
だがわたしは江川投手を愛する故に
この日から雨がきらいになった
わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた」
と詠い、事実、その死まで二度と雨の詩を作らなかったという。
野球に限らず、雨とスポーツには常に密接な関係がある。雨は、種類を問わず屋外で行われるあまたのスポーツに「雨中の決戦」というドラマをもたらし、時には名勝負、時には大波乱をもたらしてきた。ターフに敷き詰められた芝の上を戦場とし、その戦場を速く駆け抜けることを競う競馬も例外ではなく、雨によって生み出された歴史は既に競馬の歴史の一部となっている。だが、その歴史とは、江川投手の故事が示すとおり、必ずしも明るいものばかりではない。
サクラホクトオー・・・1988年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、最優秀3歳牡馬に輝いた強豪は、同時に雨によって運命を翻弄されたサラブレッドの1頭でもあった。日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳Sを勝った名馬サクラチヨノオーの1歳下の半弟としてデビューしたサクラホクトオーは、兄に続いて朝日杯3歳Sを、それも兄を超える無敗のまま勝ったことで、翌年のクラシック戦線で兄に続くダービー制覇、そして兄を超える三冠制覇の夢をも託されるに至った。しかし、順風満帆に見えた彼の競走生活は、ターフを濡らした雨によって、大きく変えられていったのである。
『星のふる里』
サクラホクトオーが生まれたのは、古くは天皇賞馬トウメイを出したことで知られる静内の名門・谷岡牧場である。サクラホクトオーの血統は、父が「天馬」トウショウボーイ、母が中山牝馬Sなど中央競馬で6勝を挙げたサクラセダンというもので、まさに日本競馬を代表する内国産血統だった。
サクラセダンは谷岡牧場のみならず、日本競馬に長年貢献してきた名繁殖牝馬でもある。彼女は現役時代の成績だけでなく繁殖成績も特筆に価するもので、函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)、七夕賞と重賞を2勝したサクラトウコウ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)などを勝ったサクラチヨノオー、そしてサクラホクトオーを輩出している。
サクラホクトオーの配合が検討されていたのは、脚部不安によって長期間戦列を離れていたサクラトウコウの復帰が迫り、さらにその全弟である7番子が、その馬体の素晴らしさから「サクラトウコウを超える逸材」として噂になり、近所の牧場関係者が
「どんな馬だろう」
と次々見学に来ていたころだった。サクラトウコウの活躍と、子馬・・・後のサクラチヨノオーの出来に気をよくした谷岡牧場は、
「セダンはマルゼンスキーとの相性がいいんだ」
と言って、もう1度マルゼンスキーをつけてみようと話し合っていた。
そんな予定を大きく変えたのは、その年谷岡牧場に、トウショウボーイの種付け権が当選したという知らせだった。現役時代の輝かしい栄光もさることながら、産駒も牡牝を問わず高く売れるトウショウボーイは、種牡馬としても極めて高い人気を誇っていた。ただ、トウショウボーイは軽種馬農協の所有馬だったため、種付け権は組合員の抽選を経なければならず、その倍率は年を追うごとに跳ね上がっていた。このチャンスを逃せば、次にトウショウボーイと交配できるのはいつになるか分からない。いや、トウショウボーイが生きているうちは無理かもしれない。
谷岡牧場の人々は、トウショウボーイの種付け権を生かすために、牧場の最高の繁殖牝馬であるサクラセダンを用意した。サクラセダンは、無事トウショウボーイの子を受胎し、翌年には鹿毛の牡馬を出産した。それが、後のサクラホクトオーであった。
『桜の星の下で』
谷岡牧場の期待を背負って生まれたサクラホクトオーは、病気もない健康な子馬だった。しかし、人間の眼は、どうしても1歳違いの兄と比べてしまう。
兄は、生まれながらにサラブレッドの理想形ともいうべき美しい馬体をしていた。生まれたばかりの弟は、兄に比べるとかなりの見劣りがしていたため、牧場の人々は、
「やっぱり2年続けていい子はなかなか出ないなあ」
などと話し合っていたという。
ところが、牧場の人々とは違う評価をしたのが、
「サクラセダンの子が生まれた」
と聞いて静内まで馬を検分に来た境勝太郎調教師だった。
サクラセダンは、その冠名から分かるとおり、現役時代は「サクラ軍団」の一員として走った。「サクラ軍団」とは、「サクラ」を冠名とする全演植氏の所有馬(名義上の馬主は全氏が経営する㈱さくらコマース)たちの総称であり、境師はその主戦調教師だった。
谷岡牧場を訪れた境師は、サクラセダンの8番子を見て、大いに感嘆した。
「この馬はきっと走る!」
彼にすっかりほれ込んだ境師は、半信半疑の谷岡牧場の人々をよそに、全氏に対してもこの馬の素質を説き、自分の厩舎に入れるよう頼み込んだ。
全氏というオーナーは、もともと血統へのこだわりが強い人だった。自分の所有馬として走らせた馬の子は、やはり自分の所有馬として走らたい。そんなこだわりを持つ全氏は、それまでのサクラセダンの子も、ほとんどを自分の所有馬として走らせていた。そんな全氏だから、境師からも強く勧められると、次に起こす行動は決まりきっていた。
とはいえ、軽種馬農協の所有種牡馬であるトウショウボーイの産駒は、セリに上場するよう義務づけられている。つまり、サクラセダンの8番子は、兄姉と違って、庭先取引ですんなりと全氏の所有馬に、というわけにはいかない。
だが、全氏はセリに赴き、あっさりと決着をつけた。
「3000万円!」
・・・いきなり相場を上回る価格で手を挙げた全氏は、周囲の予想どおりこの子馬を競り落としたのである。
こうしてサクラセダンの8番子は、兄・サクラチヨノオーと同じく、サクラの勝負服で走ることになった。競走名は、第61代横綱北勝海にあやかって「サクラホクトオー」に決まった。兄のサクラチヨノオーは横綱千代の富士にあやかっての命名で、千代の富士と北勝海は、九重親方の兄弟弟子にあたる。なお、横綱北勝海は、引退後も八角親方として角界に残り、2015年から第13代日本相撲協会理事長を務めている。