TOP >  年代別一覧 > 1980年代 > モンテファスト列伝~愚弟と呼ばれた天皇賞馬~

モンテファスト列伝~愚弟と呼ばれた天皇賞馬~

 1978年5月31日生。2010年7月12日死亡。牡。鹿毛。杵臼斉藤牧場(浦河)産。
 父シーホーク、母モンテオーカン(母父ヒンドスタン)。松山吉三郎厩舎(美浦)。
 通算成績は、27戦8勝(旧3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)、目黒記念(重賞)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『天皇賞兄弟制覇』

 かつて、日本競馬には、長距離レースを勝つことこそが無上の勲章となる時代があった。もともと英国競馬に倣ったレース体系をとり、2400mを「クラシックディスタンス」とする芝レースを中心に据えてきたわが国の中央競馬では、長距離レースこそが競馬の醍醐味とされ、ファンの注目を集めてきたのである。

 そんな日本競馬界の中でも、ホースマンたちから日本ダービーと並ぶ特別な尊敬を払われているレースが、天皇賞である。

 1937年に始まり、戦時中を除いて毎年春と秋の2度行なわれてきた天皇賞は、第3回(1938年天皇賞・秋)以降ずっと3200mで開催されてきた。最初は帝室御賞典と呼ばれ、春は阪神、秋は東京で行なわれてきたこのレースだが、呼称が平和賞、そして天皇賞へと改められた1947年以降は、春が京都、秋が東京の開催に定着していった。そして、1984年のグレード制導入とともに天皇賞・秋が東京2000mに短縮された後は、天皇賞・春は古馬最高の権威を持つ日本最長距離のGl、天皇賞・秋はスピードとスタミナを兼ね備えた中距離王決定戦として、競馬界に双璧としての輝きを放ち続けてきた。近年競馬界の価値観は多様化し、従来の権威があてはまらなくなる例も少なくないが、天皇賞を象徴する「盾」という言葉の響きは、今なおホースマンたちの野心に甘美にささやきかける魅力を持っている。

 そんな長い伝統と高い権威を誇る天皇賞を兄弟で制覇した例となると、天皇賞の長い歴史の中でも極めて稀である。天皇賞をきょうだいで制覇した例は、長い歴史の中で、わずかに2組しか存在しない。それは、クリペロ(60年秋)・クリヒデ(62年秋)、コレヒサ(63年春)・コレヒデ(66年秋)、フジノパーシア(76年秋)・スリージャイアンツ(79年秋)、そしてモンテプリンス(82年春)・モンテファスト(84年春)である。

 日本の馬産地では、現在は毎年約7000頭のサラブレッドが生まれているが、ピーク時には毎年10000頭弱が生まれたこともある。天皇賞は、その時代に現役生活を続ける数世代の混合戦であり、このレースを制覇するということは、数万頭の現役競走馬の頂点に立つということにほかならない。サラブレッドのきょうだいは多くても十数頭しかいないことを考えると、きょうだい揃ってその頂点に立つのがいかに困難かということと、その価値も分かるだろう。

 それほどに困難な偉業である天皇賞兄弟制覇を達成した1頭・モンテファストは、1984年グレード制度が導入されてGlに格付けされたばかりの天皇賞・春を初めて勝った馬でもある。これだけ聞けば、

「モンテファストはエリートの中のエリートなんだ」

と思う人も多いだろう。

 しかし、この馬の競走生活は、後世に残される経歴から想像されるように、常に順風満帆な馬生だったわけではない。彼の兄は「太陽の帝王」と称されたモンテプリンスだが、4歳時から常に大器と謳われていた兄と違い、弟はむしろ「愚弟の代表格」として、大多数のファンから馬鹿にされ続ける存在だった。

 そんなモンテファストが7歳にして天皇賞・春を制し、日本に4例しかない天皇賞兄弟制覇の偉業を完成させることができたのは、彼を取り巻く人々が大衆の冷たい評価に屈することなく、馬の才能を信じて努力と鍛錬にいそしみ、最後まで諦めなかったからである。そして、彼もまたそんな信頼に応え、兄が悲願を果たした淀を舞台に豪脚を爆発させ、見事に「モンテプリンス、モンテファストの黄金兄弟あり」という真実を世間に知らしめたのである。それはまさに、愚弟と呼ばれたサラブレッドの意地と誇りが花開いた瞬間だった。

『魅せられて』

 モンテファストの父シーホークは、種牡馬として素晴らしい実績を残したステイヤー種牡馬であり、母モンテオーカンもまた、中央競馬で走って9勝を挙げた名牝である。

 ただ、後世においてモンテオーカンに「名牝」という呼称を用いる場合、それは彼女の競走成績よりも、むしろ繁殖成績を称えてのことが多い。彼女の産駒は、モンテプリンス、モンテファストをはじめ非常に優れた成績を残したからである。

 モンテオーカンの繋養牧場であり、モンテファストの生産牧場でもあるのは、浦河の杵臼斉藤牧場である。ただ、もとをただせば、モンテオーカンを生産したのは、杵臼斉藤牧場ではなかった。中央で9勝も挙げたほどの牝馬ならば、引退後は生まれ故郷の牧場で繁殖入りするのが普通である。しかし、モンテオーカンの運命は、たまたま彼女が勝ち上がった条件戦を、当時は杵臼斉藤牧場の跡継ぎ息子だった斉藤繁喜氏がテレビで観戦していたことから、大きく動き始めた。

 当時23歳だった斉藤氏は、偶然目の当たりにしたモンテオーカンの馬体、勝ち方にすっかり惚れ込んでしまった。調べてみると、ヒンドスタンを父とする血統も魅力的だった。斉藤氏が父親にモンテオーカンを預けてもらう方法はないだろうか、と相談したところ、父親には

「何の面識もない牧場にあんないい馬を預けてくれる馬主や調教師がどこにいる」

とあきれられてしまった。しかし、モンテオーカンのことが諦めきれない斉藤氏は、父親の反対を押し切って上京の途についた。モンテオーカンが引退したら、自分の牧場へ預託馬として預けてもらいたい。その熱い思いを伝えるため、彼はモンテオーカンがいる松山吉三郎厩舎へと乗り込んだのである。

『縁』

 しかし、突然現れた面識もない23歳の若者にいきなり

「馬を預けて下さい」

といわれて

「はい、そうですか」

と答える調教師などいない。いわんや松山厩舎は美浦の名門であり、松山吉三郎師も大御所として知られた存在である。松山師は、斉藤氏の懇願に対しても、

「競馬を使っているうちから引退後のことなんか考えてないよ」

とつれなく、そのまま追い返してしまった。

 斉藤氏は、それでも諦めなかった。自分で機を見つけては上京して松山厩舎に顔を出し、松山師にモンテオーカンのことを頼み続けた。だが、松山師は首を縦に振ってくれない。そうこうしているうちに3年の月日が流れ、モンテオーカンがついに現役生活を退く日がやってきた。斉藤氏のもとに、モンテオーカンについての連絡はまだなかった。

 しかし、斉藤氏の熱意は、松山師の心を動かしていた。松山師は、モンテオーカンの馬主に

「3年間モンテに恋いこがれている男がいます」

とモンテオーカンに惚れ抜いた若者のことを話し、繁殖入りさせるのなら杵臼斉藤牧場へ預けるよう進言していたのである。馬主の了承も受け、モンテオーカンは杵臼斉藤牧場へとやってきた。モンテオーカンがいる風景・・・それは、斉藤氏が夢にまで見たものだった。

『偉大なる兄』

 こうしてモンテオーカンは、杵臼斉藤牧場で繁殖生活をスタートさせた。当然のことながら、斉藤氏が彼女に寄せる期待は並々ならぬものがあった。

 だが、せっかく生まれたモンテオーカンの初仔・・・パーソロンを父に持つ期待馬は、当歳時に事故で死んでしまった。また翌年に産まれたリボッコ産駒の第2仔モンテリボーも、幼駒時代はあまりにも体質が弱かったため、

「競走馬としては使いものにならない」

と宣告されるほどだった。後に、この宣告を裏切って競走馬となったモンテリボーは、9歳まで走って8勝を挙げ、重賞勝ちこそないものの京王杯SCやダービー卿CTで2着に入るなどの立派な戦績を残したが、その当時にそんな未来があることなど、分かるはずもない。松山師の厚意に応えられない斉藤氏の胸は、不安と焦りでいっぱいになった。

 だが、繁殖牝馬としては不完全燃焼に見えたモンテオーカンが一気に繁殖牝馬としての資質を開花させたのは、シーホークを父とする第4子で、モンテファストにとっては全兄にあたるモンテプリンスだった。生まれてすぐにその大物感から浦河の評判になったこの馬は、早くから「大器」と騒がれ、競馬場でデビューすると、たちまちダービー候補として人気になった。

 その後のモンテプリンスのクラシック戦線は、5番人気の皐月賞は4着、1番人気に推された日本ダービーは2着、また1番人気に支持された菊花賞も2着・・・と、重馬場にたたられたり、人気薄の大駆けに泣いたりの繰り返しだった。ダービートライアルのNHK杯、菊花賞トライアルのセントライト記念は勝ってトライアルこそ「二冠」を達成しながら、本番ではどうしても勝ち運に恵まれない彼のことを、ファンはいつしか「無冠の帝王」と呼ぶようになった。また、道悪が下手なのに出るレースではことごとく重馬場や不良馬場になるものだから、彼の運命を皮肉って「太陽の帝王」という異名もあった。だが、そんな異名が冠せられること自体、この馬の強さと人気の証明だった。

 クラシック無冠に終わった後の5歳時も天皇賞・秋2着、有馬記念3着と惜敗を重ねたモンテプリンスは、6歳になってついに天皇賞・春と宝塚記念を制した。彼が果たした悲願は、彼の素質と実力からすれば遅すぎるものだったにしても、そうであるがゆえにより大きなファンの感動と祝福に包まれた。慢性的な脚部不安、道悪下手といった欠陥はあったものの、ホウヨウボーイ、アンバーシャダイといった時代の名馬たちと死闘を繰り広げたこの馬の実力は並の一流馬とは一線を画するものであり、ミホノブルボンを育てたことで有名な戸山為夫師は、

「私が見てきた中で真に名馬と呼ぶに値するのはシンザンとモンテプリンスとメジロマックイーンだけである」

と評している。

 生まれたばかりのモンテプリンスが、あまりにあか抜けた馬体を持っていたため、斉藤氏は次の年もモンテオーカンには同じくシーホークを交配することにした。こうしてモンテプリンスの1年後に生まれた全弟が、モンテファストである。

 モンテファストが生まれたのは、実質的には長兄といっていいモンテリボーが4歳になり、なんとか競走馬としてものになりそうだという目星がつき、1歳上の全兄モンテプリンスの評判も、成長とともにますます上向きになっていた時期のことだった。モンテファストの馬体は、兄に比べてかなり大柄だったものの、馬体の大きさはパワーにも通じる。一般的な評価はモンテプリンスの方が上だったが、斉藤氏は

「兄よりも器が大きいかも知れない」

とモンテファストにひそかな期待をかけていた。

1 2 3 4 5
TOPへ