ヤエノムテキ列伝~府中愛した千両役者~
『危険な人気馬』
ダービー後のヤエノムテキは、放牧に出されることもなく、レースに使われながら時を過ごしていった。中日スポーツ杯4歳S(Glll)では復調したサッカーボーイの2着に敗れたものの、古馬との初対決となったUHB杯(OP)ではあっさりと勝ち、秋シーズンへ向けて順調な仕上がりと成長をアピールした。
そして、菊花賞トライアルの京都新聞杯(Gll)では、相手関係にも恵まれたとはいえ、鋭い末脚で1番人気に応えて快勝した。ダービー馬サクラチヨノオーは屈腱炎を発症し、ダービー2着馬で連対率100%のメジロアルダンも骨折した。さらに、中日スポーツ杯でヤエノムテキを破ったサッカーボーイも、脚部不安で菊花賞を回避して2週間後のマイルCS(Gl)へと方向転換したとあっては、皐月賞馬に期待がかかってくるのは当然である。そして、その皐月賞馬がトライアルを制した・・・。こうして京都新聞杯優勝の実績をも得たヤエノムテキは、菊花賞の最有力候補として浮上した。
もっとも、いくらトライアルで、同じ京都コースとはいっても、2200mの京都新聞杯と3000mの菊花賞では、レースの性質もかなり異なるものといっていい。一部からは、血統やそれまでのレース内容から、ヤエノムテキの距離適性を問題にする声も挙がっていた。しかし、競馬界の多数派は、ヤエノムテキの距離適性を問題なしとするか、問題があるとしても、他の馬との実力、底力の違いで十分に乗り切れる、という考えをとった。実績馬の多くを故障で欠く中、出走予定馬の中で随一の実績を誇るヤエノムテキの京都新聞杯での勝ち方は、彼への信頼をより強いものとするに十分なものだった。
ファンの期待を一身に受け、菊花賞当日のヤエノムテキは、単枠指定で当然のように1番人気に推された。単勝210円は、2番人気ディクターランドの790円に大きく差をつけての圧倒的な支持だった。
しかし、好位につけてレースを進めたはずのヤエノムテキは、第4コーナーを回ったあたりで完全にスタミナを使い果たしてしまった。直線でずるずる後退した彼は、勝ったスーパークリークから1秒5遅れ、初めて掲示板を外す10着に大敗してしまった。
その後、当時は2500mで行われていた鳴尾記念(Gll)を使われ、古馬に混じって58kgのトップハンデと1番人気を背負ったヤエノムテキは、ハナ差の写真判定ながら勝利を収め、4歳時の戦績を10戦6勝で終えた。3000mの菊花賞での惨敗と、その1ヶ月後の鳴尾記念の優勝。これらは、ヤエノムテキの距離適性・・・長距離戦への対応力の限界を顕著に物語っていた。
『我が恋う女は・・・』
さて、5歳春になってからも日経新春杯(Gll)で2着、産経大阪杯(Gll)で優勝するなど、安定した戦績を見せたヤエノムテキだったが、その後宝塚記念(Gl)で7着に敗れてからは、いまひとつ戦績が振るわなくなってしまった。
距離適性から天皇賞・春を回避してまで中距離適性にかけた宝塚記念で、単勝250円の1番人気を裏切った形のヤエノムテキは、馬の疲れをとるために、馬の温泉でリフレッシュを図ることになった。だが、その時にリフレッシュしすぎたのか、馬体がすっかり緩んでしまったヤエノムテキは、秋になってからもなかなか立て直すことができず、天皇賞・秋(Gl)4着、有馬記念(Gl)6着と沈んだ。・・・これらは、ヤエノムテキ陣営にとって満足のいく成績ではなかった。
当時、競馬界はオグリキャップ、イナリワン、スーパークリークといった「平成三強」の時代へと突入していた。あまりにもライバルに恵まれ過ぎたヤエノムテキは、かつて皐月賞を制し、菊花賞で1番人気に支持されたころとは一転し、いつの間にか「好走はするが、なかなか勝てない善戦マン」という位置づけに変わっていた。当初5歳いっぱいで現役を退く予定だったヤエノムテキだが、そんな評価をもう一度振り払うべく、予定を変更してもう1年現役を続けることになった。
そのころのヤエノムテキは、「一流馬」としてではなく「個性派」として、ファンから少々ヘンな人気を集めるようになっていた。ヤエノムテキの有名エピソードとして、「シヨノロマン片思い伝説」が知られている。ヤエノムテキが調教に出かけたり、厩舎に帰ったりする際に、桜花賞、エリザベス女王杯で2着に入った同い年の牝馬シヨノロマンが近くを通ると、彼はいつも立ち止まり、彼女の方ばかりをじっと見ていたという。担当厩務員の証言によって競馬界に広められたこの伝説は、彼自身のやんちゃな性格と相まってあちこちで面白半分に語られ、彼のヘンな人気を高める結果となった。・・・もっとも、「恋するヤエノムテキ」に対してシヨノロマンの態度は実につれなく、やがて5歳いっぱいで引退して北の地に帰ってしまったのだが、そんなオチもまた、話の面白さを増幅した。いつしかヤエノムテキには、「平成三強時代」の三枚目としての役割が定着していった。
『名手の選択』
長い不振に苦しんだヤエノムテキは、6歳春になると、ようやく復調の気配を見せ始めた。この春は、オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンという平成三強が揃い踏みした最後の季節となったが、ヤエノムテキはそんな中でも中距離戦線の王道を歩み、安田記念(Gl)2着、宝塚記念(Gl)3着をはじめ、重賞ばかり5戦して、2着2回3着3回という数字を残した。オグリキャップやスーパークリークを相手にしても、いつも相手なりに頑張ってそこそこの成績を残すヤエノムテキは、やはり相当の実力馬だったはずである。・・・しかし、彼の成績は、あくまでも「そこそこ」でしかない。ヤエノムテキをなんとか勝たせたい荻野師は、安田記念を機に、主戦騎手を西浦騎手から岡部幸雄騎手への交替を断行した。・・・それでも、勝てない。
90年春当時の競馬雑誌には、「三強」という記述のみならず「四強」という記述が散見される。しかし、ここでの「4頭目」とは、ヤエノムテキではなくメジロアルダンのことを指していた。Gl未勝利で、故障による療養中でもあったメジロアルダンと、皐月賞を勝ち、その後もGl戦線でそこそこの好走を続けるヤエノムテキであっても、競馬界の目はヤエノムテキを低く、メジロアルダンを高く評価していた。また、宝塚記念でオグリキャップが敗れた後は、新世代の旗手として勝ち馬オサイチジョージの評価が急上昇していた。ヤエノムテキは、なんとなく競馬界から置き去りにされたような扱いを受けていた。・・・ただ、そんな彼に熱い視線を送る1人の男がいることを、どれだけの人が認識していただろう。
宝塚記念の後、ヤエノムテキ陣営は、馬の温泉での調整に失敗した5歳時の失敗への反省を生かし、夏も馬体を緩めない調整に専念した。そのかいあって、ヤエノムテキはトライアルの毎日王冠(Gll)こそ使えなかったものの、本番と位置づけた天皇賞・秋(Gl)ではすっかり仕上がっていた。
「これで負けたら仕方がない」
荻野師は、そう胸を張った。そして、彼の自信を後押しするように、1人の男がヤエノムテキを選んだ。それは、ヤエノムテキの安田記念以降の主戦騎手であると同時に、このレースから復帰するメジロアルダンの主戦騎手でもあった岡部騎手だった。
安田記念以降、西浦騎手に代わってヤエノムテキの手綱をとってきた岡部騎手だが、天皇賞・秋(Gl)では、メジロアルダンをはじめとする彼のお手馬が、何頭かエントリーしてきていた。メジロアルダンと岡部騎手のコンビは、88年日本ダービー2着、89年天皇賞・秋3着という一流の実績を残している。天皇賞・秋でも、一般的には
「岡部はメジロアルダンに乗るだろう」
という声が強く、岡部騎手にはメジロアルダン陣営からの騎乗依頼も舞い込んでいた。
しかし、岡部騎手はメジロアルダンではなく、ヤエノムテキを選んだ。岡部騎手は、騎乗依頼が重なった時に騎手が馬を選ぶ最大の基準について、「勝つ確率はどちらがより高いか」であると公言している。さらに、調教師、馬主が有力なのはヤエノムテキよりメジロアルダンで、馬の年齢も、同じ6歳という状況での岡部騎手の選択は、当代一の名手がメジロアルダンよりヤエノムテキの方が勝つ確率が高い、と認めたことを意味する。大一番を前にした荻野師らに、その選択は大きな自信を与えた。