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ヤエノムテキ列伝~府中愛した千両役者~

『勝手に引退式』

 ところが、ヤエノムテキは、最後の最後になって、勝手に1頭だけの引退式を始めてしまった。突然暴れ出した彼は、岡部騎手を振り落として1頭だけでコースを独走しはじめたのである。

 場内は、当然のことながら大騒ぎになった。この日のヤエノムテキは単勝6番人気に支持され、いちおうの穴人気となっている。そんな馬が、レースで騎手を乗せて走るのではなく、レース前に騎手も乗せずに気持ちよく走り始めたのだから、注目を集めないはずがない。この瞬間、スタンドの観衆、そしてテレビの視聴者の目は、すべてヤエノムテキに注がれた。

 ヤエノムテキは、やがて追いかけてきた係員に捕まり、馬体再検査の上、「馬体に異常なし」ということで、レースには出走することになった。しかし、萩野調教師は、捕獲されて連行されてきたヤエノムテキの顔を見て、すぐに勝負を諦めたという。

「こいつ、もうひと仕事終えましたって顔をしとる」

というのが、その理由である。こうしてヤエノムテキは、人間の都合などには全く構うことなく、自分だけの引退式を自分だけでやり遂げてしまった。

『宴の後・・・』

 ヤエノムテキによる意外な座興でヘンに沸いたこの日のレースだが、その終末は劇的なものだった。秋は惨敗続きで「終わった」とみられていたオグリキャップが、充実一途の4歳馬たちを抑え込み、奇跡の復活を果たしたのである。スタンドは、かつては宿敵だった武豊騎手を背にして凱旋するオグリキャップを、壮大な「オグリ・コール」で迎えた。日本競馬のひとつの壮大な物語は、こうして大団円を迎えた。まるで筋書きでもあるかのような劇的なドラマに、競馬ファンは誰しもが酔った。

 その一方で、レース前に観衆の目を独り占めにしたヤエノムテキは、レースが始まると、自分は何事もなかったかのように凡走し、可もなく不可もない7着となってさっさとターフを後にした。まるで、「自分の役目はもう終わりました」といわんばかりだった。

 しかし、ヤエノムテキの「引退式」は、結果的にオグリキャップによる復活劇の、重要な布石となった。ヤエノムテキの放馬とその後の馬体再検査によって延びに延びた発走時刻の間、行き場のない自分の闘志に苛立たされ、ペースを狂わされたのは、主として若い4歳馬たちだった。彼らは、レース自体も超スローペースで流れたことで、折り合いがつかなくなって体力と気力を消耗していった。

 この時の有馬記念の勝ち時計である2分34秒2は、82年に重馬場で行われたヒカリデユール、良馬場に限定すれば81年のアンバーシャダイ以来の「遅い」ものである。この日、同じ芝2500mコースでは、900万下特別のグッドラックHも行われているが、やはり岡部騎手の手綱によって勝利を手にしたフジミリスカムの勝ち時計2分33秒6よりもさらに遅い。

 そんな特異な展開の中で、4歳馬たちがオグリキャップをとらえることができなかった原因は、まさにヤエノムテキにあった。彼のレース前の「暴走」によって若い馬たちが自らをコントロールできなくなっていった中で、実力的には確実に衰えていたものの、百戦錬磨の経験は持っていたオグリキャップだけが、己を見失うことなく今の自分の力を100%出し切ることができたのである。

 現役時代を通して、オグリキャップという極星の陰にあって苦労したヤエノムテキが、自身とオグリキャップの最後のレースでも、オグリキャップの「伝説」を人知れずアシストしたというのは、不思議な皮肉である。あるいは、ヤエノムテキは自分がオグリキャップの脇役に過ぎないことを感じとっていたのかもしれない。自分にとってもオグリキャップにとってもラストランであるこのレースで、ヤエノムテキは、自らを「捨て石」にして喜劇を演出し、さらに感動のラストの布石まで張った。そして、最後の最後に一番おいしいところは「主役」オグリキャップに渡して、ヤエノムテキは満足とともにターフを去っていった・・・のかもしれない。

『時代の流れが速すぎて』

 現役引退後、総額5億円のシンジケートが組まれたヤエノムテキは、北海道へ帰って無事に種牡馬入りを果たした。しかし、その後の時代は、ヤエノムテキに味方しなかった。

 まず、この時期の馬産界は、バブル経済の勢いを駆って、強い円の力で次々と海外の最強クラスの名馬たちを種牡馬として輸入していた。トニービン、ブライアンズタイム、ダンシングブレーヴ、そしてサンデーサイレンス・・・。それまでならば日本に来ることなど夢にも考えられなかった世界的な名馬たちが次々と流入したことにより、馬産界における血統勢力図は、大きく変化せざるを得なかった。

 しかも、馬産地の技術の進歩により、この時期から、人気種牡馬の大量交配が可能になり始めた。それまでの日本の馬産地では、人気種牡馬の年間交配数は、60頭前後が限度とされていた。・・・しかし、牝馬の発情のタイミングを見極めた上での計画的交配により、その上限は100頭、200頭・・・と、それまでとは異次元の大量交配が可能になり、種牡馬市場も大きく変わった。・・・毎年3桁の交配需要があるごく一部の超人気種牡馬と、大多数の「それ以外の」種牡馬では、その格差は、さらに大きく開かざるを得ない。

 馬産地では、種牡馬が過剰になり、特に内国産馬に対する種牡馬の能力の見切りは異常に早くなっていった。そんな時代の変化の余波を直接受けたのが、以前から日本に根付く血統を持つ内国産馬たちだった。ヤエノムテキの血統も、激しく移りゆく時代の流れの中で、もはや古いものとなりつつあった。

 1994年に初年度産駒がデビューしたヤエノムテキだったが、96年には早くもシンジケートが解散してしまった。デビューしたのはわずか3世代で、初年度産駒ですら5歳のうちに見切りをつけられたのでは、晩成型の種牡馬はたまったものではないが、それが馬産地の厳しい現実だった。

 サラブレッドが経済動物である以上、人間の事情はヤエノムテキに否応にも及んでくる。シンジケートの後見を早くも失ってしまったヤエノムテキは、種牡馬生活を続行できなくなる危機に陥った。

『浦河にて』

 もっとも、その後のヤエノムテキの軌跡は、大多数の種牡馬に比べてはるかに幸運なものだった。まず、最初に彼を救ったのは、故郷である浦河の生産者たちだった。ヤエノムテキのために、総額220万円という、種牡馬入り直後の200分の1以下の規模の小さなシンジケートを結成した彼らが、ヤエノムテキを引き取った。その後、ホッカイドウ競馬で活躍したムテキボーイを輩出したヤエノムテキだが、それに続く成果を挙げられないまま、第2のシンジケートも解散されると、今度は一般のファンが資金を出しあって作った「ヤエノムテキ会」が名乗りをあげ、彼らの援助を受けながら、なお種牡馬生活を送っている。

 残念ながら、シヨノロマンとの恋を成就させた、という噂は聞かないものの、種牡馬としての彼は、若き日の恋のことは忘れたかのように、のほほんと日々の生活を送ったという。有馬記念で大騒ぎをしたイメージとはかなり異なるが、見学者が牧柵の向こう側から彼のことを眺めていると、彼は時々ひょこひょことやって来て、柵から顔を突き出すことがあった。見学者が来るとよくて無視、あるいは威嚇してくる馬も少なくないが、彼に限っては、どうやら人間が大好きだったようである。・・・一度青草やニンジンを持って近づいてきた「見学者」によってたてがみをむしり取られる被害に遭ったヤエノムテキだが、そうであるにもかかわらず、見ず知らずの見学者に愛想を振りまく彼は、本質的に人間が大好きなのだろう(・・・もっとも、親愛の情が過ぎて噛み付いてくることもあるというので、油断してはならない、とのこと)。

 ちなみに、岡部騎手のヤエノムテキ評は、「人間に甘やかされてしまった馬」というものだった。人間が大好きで、その人間に甘やかされて育ったからこそ人間に甘えて好き勝手をやってしまったのだという。「気性難」と恐れられた彼の素顔は人なつっこい馬であったことは、もっと広く知られてもいい。

 2014年3月28日、ヤエノムテキは腸閉塞によって天に召された。種牡馬としては成功できなかったものの、多くの人々に支えられて幸せな馬生を過ごした名馬だったと言えよう。

 世代交代のサイクルが非常に早い競馬界においては、オグリキャップを中心にスーパークリーク、イナリワンといった名馬たちが闘いを繰り広げた時代も、いまやずいぶん遠いものとなってきた感がある。これらの名馬たちが「平成三強」と謳われてしのぎを削ってから、30年以上の時が経過した。あの頃オグリキャップに魅せられて競馬ファンになった若者たちの多くが、競馬ファンとして定着し、日本競馬をファンの立場から支えるようになった。彼らに支えられた日本競馬は、その後多くのスターホースたちが現れたこともあって、不況知らずの繁栄を謳歌し、かつて暗いギャンブルというイメージしかなかった競馬を広く一般に浸透させたことを思うと、あの時代は間違いなく日本の競馬にとってのターニングポイントだったといえる。

 そんな激動の時代に生き、府中2000mで二度Glの栄冠に輝いたヤエノムテキは、実は中距離界の本格派だった。しかし、そんないかめしい肩書はまったく似合わないほどに愉快な馬でもあった。だからこそ、それから長い長い時が経った今もなお、そんな愉快な馬がいたことを、私たちはいつまでも忘れることはないだろう―。

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