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サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~

『平成元年クラシックロード』

 1989年1月7日、昭和天皇崩御の報に、日本中が静まり返った。中央競馬の大レースの中で最も古い歴史を持つ東京優駿が始まったのは「昭和7年」、1932年のことである。日本の競馬は「昭和」という年号・・・昭和天皇とともにあり、その間セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフといった多くの名馬たちが、クラシックロードの中から現れ、競馬の歴史を形作ってきた。

 昭和天皇の崩御を受け、「昭和」から「平成」への改元が発表された。「昭和」から「平成」へ。それは、競馬界におけるひとつの時代の終わりと新たな時代の始まりを告げていた。

 新たな時代のクラシックロード・・・平成元年の牡馬クラシック三冠戦線の季節に入り、朝日杯3歳S後の重賞戦線の展開につれて、馬たちの力関係が次第に明らかになっていく一方で、まったく無名だった新興勢力も台頭し始めた。

 だが、この年のクラシック戦線の主役が3歳王者サクラホクトオーであるということで、衆目は一致していた。朝日杯3歳Sを見たある競馬評論家が

「サクラホクトオーは、ダービーを勝つには鋭すぎる」

と距離不安を指摘したところ、境師が激怒してひと騒動が起こる、という一幕もあったが、表面的なもののみを見るならば、3戦3勝、無敗のまま3歳王者に登りつめたその実績には非の打ちようがないし、レース内容も申し分ない。おまけに、彼は「ダービー馬の弟」という血統によるカリスマ性まで備えるに至っていた。対抗馬を探すにしても、サクラホクトオーに唯一実績面で太刀打ちできるはずだった阪神3歳Sの覇者・ラッキーゲランは故障で戦線を離脱し、春のクラシックへの出走は絶望的になっていた。他に候補を探すと、3歳戦線の実績馬としては道営競馬から中央競馬へ転入し、その初戦となった京成杯3歳S(Gll)を勝ったドクタースパート、府中3歳S2着の後も京成杯(Glll)3着、そして共同通信杯4歳S(Glll)優勝と実績を積み重ねるマイネルブレーブ、新興勢力としてはきさらぎ賞で重賞初制覇を飾って通算成績を5戦3勝としたナイスナイスナイス、年末のひいらぎ賞を勝ってオープン入りした良血馬アンシストリーというあたりが浮上してはいたものの、サクラホクトオーに対抗できる存在とまでは思われていなかった。

 ダービーの兄弟制覇を目指すサクラホクトオーは、年明け以降の調整も順調だった。皐月賞と同じコースということもあって有力馬たちが集結する弥生賞(Gll)の出走表に、予定どおりサクラホクトオーの名前もあった。

『誰がために雨は降る』

 皐月賞、ダービーを占う上での試金石となる弥生賞で、サクラホクトオーは単勝140円という断然の1番人気に支持された。2番人気のレインボーアンバーが830円、3番人気のアンシストリー以下はすべて10倍以上の配当をつけていたから、これは完全な一本かぶりだった。

 だが、レース当日の1989年3月5日、関東地方は凄まじい大雨に見舞われた。当然馬場状態も悪化し、中山競馬場の芝コースは、有史稀にみる泥んこ馬場となっていた。水が浮くというよりは、泥の中に芝が浮いているというべき状態である。・・・それが、サクラホクトオーの運命の暗転だった。

 サクラホクトオーは、トウショウボーイ産駒である。現役時代のトウショウボーイは、「天馬」と謳われたとおり、何よりも軽快なスピードを武器とするサラブレッドだった。不世出の名馬だったトウショウボーイ自身こそ重馬場にも対応したが、彼が種牡馬として送り出す産駒たちは、重馬場が苦手という特徴を持つ馬が多かった。

 弥生賞を前にして、条件戦を見守るサクラホクトオー関係者たちの表情にも、不安がよぎった。サクラホクトオーは、トウショウボーイ産駒らしくスピードのある走りが持ち味だが、跳びが大きい走法は、とても重馬場向きとは思えなかったためである。弥生賞を前に行われた芝1800mの常陸特別(900万下特別)では、条件クラスとはいえレース経験の豊富な古馬たちですら、勝ちタイムが1分54秒5という遅さとなった。経験の浅いサクラホクトオーが、この悪条件にどれだけ対応できるだろうか・・・。救いといえば、こんな極悪馬場でのレース経験を持つ馬など、他にも1頭もいないであろうことくらいだった。

 そして、彼らの不安は最悪の形で的中する。サクラホクトオーは、スタート直後、中団につけることに成功したかに見えた。だが、土砂降りの雨、はね散る泥水・・・そんな悪条件は、確実に3歳王者から体力を奪い、闘志をそいでいった。

『泥にまみれた王道』

 レースが後半を迎え、レインボーアンバーが早めに先頭に立つと、弾け飛ぶ泥の勢いはより強くなり始めた。レインボーアンバーは、この日まで6戦2勝、2着3回の戦績を残している。

 思えば、レインボーアンバーの父・アンバーシャダイは、トウショウボーイとは対照的に「琥珀色の機関車」と呼ばれるパワー溢れる走りを武器としていた。レインボーアンバーがこれまでに挙げた2勝はいずれもダートでのもので、特に前々走となる400万下では、2着に1秒7の大差をつける圧勝だった。芝とは言っても、これほどに泥が浮いた馬場では、ダートコースと変わりない。気がつくと、この日のレース展開は、他のどの馬よりもレインボーアンバーの持ち味が生きるものとなっていた。

 そんなレインボーアンバーとは対照的に、この日のサクラホクトオーは、それまでの輝きが嘘のように、直線で無惨な姿をさらしてしまった。3歳時の3戦でことごとく炸裂し、他馬を抜き去ってきた瞬発力はまったく発揮されることなく、サクラホクトオーは馬群に沈んだのである。

 レインボーアンバーは、大差勝ちを収めた。勝ちタイムが2分7秒7というのは、弥生賞が2000mで行われるようになった1984年以降、最も遅い。レインボーアンバーが記録した上がり3ハロンも39秒9というのはあまりに遅いが、これが16頭の中で最速の上がりである。3着馬アンシストリーが40秒6、その他はすべて41秒以上というから、この日の馬場状態たるや惨憺たるものだった。

 そんな過酷な条件の中で、サクラホクトオーも12着に終わった。2分12秒1というタイムは、2200mのタイムに等しい屈辱の時計であり、上がり3ハロンも42秒9である。これまで1頭にも先着を許したことのなかった無敗の3歳王者は、この日、一敗地にまみれた。

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