サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~
『歯車が戻らぬままに』
サクラホクトオーのAJC杯以降の戦績に、見るべきものはない。次走の産経大阪杯(Gll)では、スーパークリークと僅差の2番人気に支持されたサクラホクトオーだったが、見せ場もないまま7着に破れた。天皇賞・春(Gl)でもスーパークリーク、イナリワンに次ぐ3番人気を得ながら、前年の秋以降取り戻しかけていたはずの瞬発力の気配すら感じさせないままの14着に沈んだ。
そして、天皇賞・春の後に脚部不安に見舞われたサクラホクトオーは、約1年間戦列から離れる憂き目を見た。思えば、兄のサクラトウコウは慢性的な脚部不安に悩まされ、サクラチヨノオーも最後は屈腱炎で競走生命を奪われている。父がマルゼンスキーからトウショウボーイに変わったサクラホクトオーではあったが、やはり彼の一族の宿命からは逃れることができなかったのである。
6歳になった彼は、長距離では息が入らず距離が持たないだろうということで、京王杯SC(Gll)、安田記念(Gl)という短距離戦線を歩んだものの、9着、15着という無残な結果に終わった。・・・彼が限界を迎えていることは、誰の目にも明らかだった。
そして、彼の現役引退が決まった。通算成績は、14戦5勝。無敗のまま朝日杯3歳Sを制した時には「どこまで大物になるのか」といわれたサクラホクトオーだったが、未完の大器と呼ばれたその可能性はついに完全に開花することなく、名馬候補生から名馬へとなることができないままに、ターフを去ることになった。実際の彼が残した戦績は、かつて期待されていたものとは比べ物にならないほどにささやかなものにすぎず、まるで雨の弥生賞によって運命の歯車が狂ってしまったかのような競走馬生活だった。
『時を越えた挑戦』
ターフを去ったサクラホクトオーは、自らは十分に開花させることができなかった能力を子孫に伝え、自身には果たし得なかったクラシック制覇の希望を託すため、種牡馬として供用されることになった。
種牡馬としてのサクラホクトオーは、天馬トウショウボーイの直系種牡馬、ダービー馬の弟という血統背景に加え、自らも3歳戦から実績を残した仕上がりの早さも評価され、なかなかの人気を集めた。供用初年度こそ36頭と交配して29頭の産駒を得ただけに終わったものの、2年目には71頭と交配して46頭の産駒を得た。トウショウボーイ産駒の大将格とも言うべきミスターシービー産駒の不振はやや気がかりだったものの、サクラホクトオー産駒より一足先にデビューしたサクラチヨノオー産駒から皐月賞2着馬サクラスーパーオーが出たことも、彼への期待を高める根拠となっていた。
ところで、サクラホクトオーの初年度の交配相手の中に、彼の生まれ故郷である谷岡牧場からやってきたサクラハッスルがいた。競走馬としてもクイーンS2着などの成績があるが、激しい気性ゆえに持って生まれた才能ほどの戦績を残せなかった点では、彼女もサクラホクトオーと共通している。
そんな2頭の間に生まれたのが、サクラスピードオーである。サクラホクトオーの初年度産駒の1頭となる彼は、やがて父と同じ境勝太郎厩舎に入厩し、父が走った14戦のうち13戦を鞍上としてともにした小島太騎手を背にしてターフへと降り立つ。・・・それは父がターフを去ってから4年後、1995年10月のことだった。
『父のために、己のために』
サクラスピードオーは、レース終盤に炸裂する鋭い末脚を武器としたサクラホクトオーとは対照的に、序盤から展開する小気味良い逃げを武器としていた。2戦目で初勝利を挙げ、その後府中3歳S(OP)2着、ホープフルS(OP)3着と惜しい競馬を続けながらも条件クラスにとどまっていた彼がスターダムにのし上がったのは、年が明けて96年の重賞戦線に入ってからのことだった。
年明け間もない重賞戦線は、クラシックに出走権のない外国産馬たちが大挙して押し寄せることが多く、サクラスピードオーが出走した京成杯(Glll)、そして共同通信杯4歳S(Glll)とも、馬柱には「マル外」の印が溢れかえっていた。京成杯では、朝日杯3歳S(Gl)で2着したエイシンガイモンをはじめ14頭中8頭、共同通信杯4歳Sでも9頭中6頭までが、海外の牧場で生まれた後に日本へ輸入された外国産馬。平均的にレベルが高く、さらに仕上がりも早い外国産馬たちによって次々とゲートを埋められていく重賞戦線。・・・サクラスピードオーは、日本競馬が迎えつつある新たな時代を象徴する激流の中にいた。
だが、彼はそんな試練を乗り越えた。いずれもスタートから先手を取った彼は、京成杯ではユノペンタゴンにハナ差ながら逃げ切り、共同通信杯ではエイシンコンカードに1馬身半差をつけての完勝で締めた。サクラスピードオーは、クラシックの季節を前にして、自らの勝利をもってクラシックを狙う新星の誕生を広く宣言したのである。
「サクラホクトオーの子・サクラスピードオーがクラシックに名乗りをあげた!」
ファンは、祖父トウショウボーイの代から親しみ続けた内国産血統の台頭に、熱く胸を躍らせた。
1996年のクラシック戦線は、1世代前に初年度産駒をデビューさせたばかりのサンデーサイレンス産駒・・・牡馬戦線では大将格といわれたフジキセキの故障にもかかわらず、ジェニュイン、タヤスツヨシの2頭で皐月賞、日本ダービーの1、2着を独占し、牝馬戦線でもオークス馬ダンスパートナーを送り出した怪物種牡馬の第2世代の子供たちによって席巻されそうな気配を見せていた。前年暮れの朝日杯3歳S(Gl)を制したバブルガムフェローを筆頭に、ラジオたんぱ賞3歳S(Glll)、きさらぎ賞(Glll)を勝ったロイヤルタッチ、重賞勝ちこそないものの完成度の高い競馬をしていたイシノサンデー、さらにダンスパートナーの全弟で大きな潜在能力を秘めるダンスインザダーク・・・そんな有力馬たちが「サンデーサイレンス四天王」を形成し、牡馬クラシック戦線は早くも「サンデーサイレンスのための戦い」という状況になりつつあった。
そんな時代に抗うように、クラシック戦線・・・「サンデーサイレンス四天王」たちに敢然と挑戦状を叩きつけた形のサクラスピードオーは、「サンデーサイレンス以外」の代表格として、たちまち熱い注目の視線を集めることになった。サンデーサイレンスをはじめとする世界的な名馬が当然のように輸入されるようになった今となっては、かつて父に重圧としてのしかかった「良血」の冠がサクラスピードオーに冠せられることはない。古い時代なら良血馬と呼ばれて当然だったはずの彼は、サンデーサイレンスの血を受けた新しい時代の良血馬たちを相手に、かつて父が果たせなかったクラシック制覇の悲願、そして「父内国産馬」の誇りを背負い、時代の暴風逆巻く1996年クラシックロードへと乗り込んでいったのである。