レッツゴーターキン列伝~煌めく殊勲の向こう側~
1987年4月26日生。2011年1月30日死亡。牡。鹿毛。社台ファーム(早来)産。
父ターゴワイス、母ダイナターキン(母父ノーザンテースト)。橋口弘次郎厩舎(栗東)。
通算成績は、33戦7勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、小倉大賞典(Glll)、
中京記念(Glll)、谷川岳S(OP)、福島民報杯(OP)。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
『旅路の果て』
1992年秋の古馬中長距離Gl戦線の始まりを告げる第106回天皇賞・秋(Gl)当日、全国の競馬ファンの注目は、ただ1頭のスターホースに注がれていた。トウカイテイオー・・・それが、当時の競馬ファンの注目を独占したそのサラブレッドの名前である。
トウカイテイオーは、日本競馬史上最高の名馬であるシンボリルドルフの初年度産駒であり、最高傑作とされる名馬である。偉大な父は、現役時代は中央競馬史上初めて無敗のままクラシック三冠を制し、国内の通算成績は15戦13勝2着1回3着1回と、ほぼ完璧に近い強さを誇った。引退までにGlを7勝したこの名馬の中の名馬を、ファンは畏敬の念すら込めて「絶対皇帝」と呼び、そして「絶対皇帝」の血を受けたトウカイテイオーもまた、父の後継者としてのファンの注目と期待を一身に集めていた。
この日までにトウカイテイオーが残した戦績は8戦7勝だった。前年に
「皇帝の子・帝王現る!」
というセンセーショナルな見出しとともにクラシック戦線に躍り出た彼は、父と同じく不敗のまま皐月賞、ダービーを制し、二冠を達成した。父に続く三冠の夢は骨折によって絶たれたものの、父子二代で無敗のまま二冠を達成した快挙は、中央競馬の歴史の中でも当時としては初めてのことであった。
その後のトウカイテイオーは、古馬になったこの年の春、天皇賞・春(Gl)でメジロマックイーンの前に生涯初めての敗北を喫したとはいえ、レース中に骨折していたことが判明したこともあり、多くのファンは、いまだに「中距離で最も強いのはトウカイテイオー」ということを信じていた。得意の長距離でトウカイテイオーを撃破したメジロマックイーンが、この秋は故障によって戦線を離脱していたこともあって、ファンの人気はトウカイテイオーただ1頭に集中した。血統的なカリスマ性がトウカイテイオーの人気を後押ししていたという側面は否めないものの、それを差し引いたとしても、トウカイテイオーがファンの支持を集めるに足りる戦績を残し、父の後継者と呼ばれるに足る存在だったことも、間違いない事実だった。
天皇賞・春のレース中の骨折によって戦線を離れていたトウカイテイオーが迎えた復帰戦が、この日の天皇賞・秋だった。このレースは、父シンボリルドルフがいったん直線で抜け出しながら、伏兵ギャロップダイナにまさかの敗北を喫し、ついに制覇をなし得なかった因縁のレースでもある。
「帝王が、皇帝の果たし得なかった天皇賞・秋の制覇を果たすのか?」
ファンの関心は、その一点のみにあった。トウカイテイオーは故障明けだったにもかかわらず、彼に対する信頼は絶大なものであり、ファンの夢と期待は、彼を単勝240円の1番人気に押し上げていた。
・・・ところが、そんな「トウカイテイオーのためのレース」だったはずの天皇賞・秋を待っていたのは、誰もが予想しない結末だった。ウィナーズサークルに立ったのは、圧倒的1番人気に支持されたトウカイテイオーと岡部幸雄騎手ではなく、単勝11番人気のレッツゴーターキンと大崎昭一騎手だった。2着にも5番人気のムービースターを連れてきた馬連は、何と17220円をつける大波乱となった。ローカルで地味な活躍を続けた古豪と、地獄を見た男とのコンビは、輝かしい戦果を挙げたのである。
しかし、このコンビが栄光をつかむまでには、人馬それぞれに長い戦いと苦悩の積み重ねがあった。今回のサラブレッド列伝では、彼らが長い旅路の果てにようやくたどり着いた大殊勲、そしてそんな大殊勲の向こう側にあったものは何だったのか、というテーマを取り上げてみたい。
『社台の誇りの血』
1992年の天皇賞・秋を制したレッツゴーターキンは、1987年4月26日、早来・社台ファームで生まれた。社台ファームといえば、いわずと知れた日本最大のブリーダーである。
レッツゴーターキンは、母ダイナターキンの第3仔に当たる。レッツゴーターキンの牝系は、社台ファームを一代で日本最大の牧場へと育て上げた吉田善哉氏、そして社台ファームそのものの馬産の歴史が詰まったものだった。
ダイナターキンの母、つまりレッツゴーターキンの祖母は、社台ファームに初めてのオークスをもたらした1969年のオークス馬・シャダイターキンである。シャダイターキンは、前年の桜花賞馬コウユウとともに、初期のシャダイファームを支えた名種牡馬ガーサントの牝馬の代表産駒とされることが多い。
馬産界では、ガーサントを現在に続く巨大帝国・社台ファームの礎を築いた功労馬とする見方が定着している。ガーサントが日本へ輸入された1961年頃までの間、吉田氏は牧場の屋台骨を支え、拡大路線の推進力たりうる名種牡馬を求め、次々と海外の種牡馬を輸入していたものの、これらがことごとく外れるという、極めて厳しい状況にあった。社台ファームの経営自体が危うくなったことも、一度や二度ではないという。そんな時期に現れた救世主が、コウユウ、シャダイターキン、そして他の牧場の生産馬ながらニットエイト等を次々と輩出することで名種牡馬としての地位を確立したガーサントだった。ガーサントの存在は、社台ファームに莫大な種付け料収入をもたらすとともに、「母の父」として牧場の繁殖牝馬たちに底力を注入することで、血統水準の底上げに大きく貢献した。
そんな社台ファームの躍進を象徴するオークス馬・シャダイターキンに対し、ガーサントの後に社台ファーム、そして日本の馬産界を支えたノーザンテーストを配合して生まれたのが、レッツゴーターキンの母親だった。ノーザンテーストについては、もはやここでの説明を要しないだろう。かつて11年連続チャンピオンサイヤーに輝いたノーザンテーストは、日本競馬に一時代を築いた種牡馬であり、その血が日本の競馬界に与えた影響は計り知れない。もし社台ファームがノーザンテーストを導入していなかったら、今の日本の馬産界はどのような勢力図になっていたかを想像することは、困難である。
そんな社台ファームが誇る牝系に、ターゴワイスを付けて生まれたのがレッツゴーターキンである。父のターゴワイスは英仏で8戦5勝、エクリプス賞(仏Glll)などを勝った仏3歳王者であり、種牡馬としてもなかなかの成功を収めている。引退後3年間をフランスで供用されたターゴワイスだったが、その間に凱旋門賞などを勝ったオールアロング、仏1000ギニー馬エクレイヌを出し、初年度産駒がデビューした年には仏3歳リーディングに輝いている。日本に輸入された後は大物を出せなかったが、それでも粒揃いというに足りる産駒は送り出し、多くの重賞馬も輩出している。
『オチコボレ』
もっとも、このような血統背景を持つレッツゴーターキンだったが、育成牧場での評判は芳しいものではなかった。
社台ファームは、当時から生産と育成を分けて行っており、レッツゴーターキンも育成のために千歳の社台ファーム空港牧場に送られていった。当時の空港牧場は、当時から早来の本場の生産馬のうち約3分の1の調教・育成を担当していた。
ところが、空港ファーム入りしてからのレッツゴーターキンは、とてつもない不良ぶりをいかんなく発揮するようになった。なにせ、厩舎の中でも放牧地でも、ちょっと目を離すと何をしでかすか分からなかった。機嫌が良いと思って乗り運動をさせていても、何を思ったか突然暴れたり、横へ吹っ飛んだりした。
当時の場長は、あまりにもレッツゴーターキンのいたずらがひどいので、
「あんなアブない奴には他人を乗せる訳にいかない」
と意を決し、乗り運動ではいつも自分で乗っていた。しかし、レッツゴーターキンの奇行はいっこうにおさまらず、振り落とされたり、かまれたりで、場長には生傷が絶えなかったという。
さらに、レッツゴーターキンは一口馬主クラブである社台ダイナースサラブレッドクラブの所有馬として出資者を募ることになったが、あまりに落ち着きがなくじっとしていないため、クラブのカタログに使うための写真すら撮れない。おまけに、大切なクラブ会員の見学ツアーの時には、いつも放馬する始末だった。
レッツゴーターキンのあまりの態度の悪さに、場長は
「口が利ければじっくり話し合いたいけれど、そうもいかない。どうしてアイツは口が利けないんだ」
と嘆いていたという。しかし、場長に同情した他の従業員が交替しても、そのたびに危ない目に遭うため、結局は場長の手に戻さざるを得なかった。さすがに彼らも頭にきたのか、レッツゴーターキンの育成牧場で「オチコボレ」と呼ばれていたという。
ちなみに、後の天皇賞・秋でレッツゴーターキンの2着に入るのはムービースターだが、レッツゴーターキンの1年前に同じ空港牧場を旅立ったこちらは、「オチコボレ」のレッツゴーターキンとは正反対の、手のかからない優等生だったとのことである。
『いまだ更生せず』
そんな空港牧場の関係者たちの苦労も、ようやく終わる日がやって来た。3歳秋になって橋口弘次郎厩舎への入厩が決まった「オチコボレ」は、ようやく栗東のトレセンへと送り出されていったのである。ようやくその手から希代の問題児を放した彼らは、肩の荷を降ろした安堵感に、心の中で快哉を叫んでいた。
もっとも、このことで問題が根本的に解決されるわけでもない。それまで空港牧場のスタッフが味わっていた恐怖と苦労を、今度は橋口厩舎のスタッフが味わうようになっただけだった。カラスを見ても大騒ぎするレッツゴーターキンに対し、橋口師は
「気性が悪いというよりも臆病なのではないか・・・」
と思ったりもしたが、だからといってどうなるものでもない。レッツゴーターキンは、橋口厩舎でも相変わらず乗り手を振り落としたり、指示を聞かずに勝手に走る方向を変えたりしていた。ある時などは、坂路に連れていったのに、1頭だけで厩舎に逃げ帰ってしまったという。
「全く期待なんてしていませんでしたよ。1つか2つ勝ってくれればいいなって感じでした」
・・・それが、橋口師の当初のレッツゴーターキン評だった。
『うら若き日々』
さて、橋口厩舎の所属馬として12月にデビューしたレッツゴーターキンは、3歳戦を2度使われたものの、いずれも着外に終わった。レッツゴーターキンの初勝利は、通算4戦目・・・4歳4月まで待たなければならなかった。
その後ほどなく2勝目を挙げたレッツゴーターキンは、出世の早さという意味では「オチコボレ」ではなく平均以上のペースだった。もっとも、平均以上とはいっても、レッツゴーターキンが春のクラシックとは無関係のところにいた、というのもまた事実である。
レッツゴーターキンの重賞初挑戦は「残念ダービー」こと中日スポーツ4歳S(Glll)だった。ここでのレッツゴーターキンの人気は、12頭立ての11番目に過ぎなかった。たかだか4歳限定のローカルGlllでこの人気だから、この当時のレッツゴーターキンに対するファンの期待がどの程度のものだったのかは、自ずと知れるだろう。
レッツゴーターキンは、ここで大方の期待を裏切ってロングアーチの2着に突っ込んだ。不良馬場だったことから「展開の紛れ」という冷たい声もあったが、重賞連対は重賞連対である。ここで本賞金を加えたレッツゴーターキンは、後のローテーションにも新しい可能性を切り拓くことになった。・・・それはクラシック最後のひとつ、秋の菊花賞への道である。
秋のレッツゴーターキンは、菊花賞を目指して神戸新聞杯(Gll)に出走した。無論その道が楽なはずもなく、4着と可もなく不可もない成績に終わると、今度はクラスが準オープンにとどまっていることを利用し、菊花賞と同じコースを体験させるために嵐山S(準OP)を使ったが、ここでも4着となった。
強い相手に混じった時の底力、長距離適性に確信を持てないままに菊花賞へと向かうことになったレッツゴーターキンだったが、案の定というべきか、菊花賞ではその力はまったく通用せず、9番人気、11着に終わった。菊花賞当日の京都競馬場は重馬場であり、不良馬場の中日スポーツ4歳Sで2着に入った実績があるレッツゴーターキンにチャンスが出てきたようにも思われたが、名馬メジロマックイーンの前に、まったく歯が立たなかったのである。
レッツゴーターキンは、菊花賞の後もう1戦の戦績を重ね、4歳を終えて13戦2勝2着2回3着2回という結果を残した。この頃のレッツゴーターキンの位置づけは、せいぜい二流馬の上といったところだった。