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モンテファスト列伝~愚弟と呼ばれた天皇賞馬~

『本命馬の苦悩』

 第89回天皇賞のゲートが開くと、圧倒的1番人気を背負ったホリスキーがスタート直後すぐに手綱を抑え、後方から3番手辺りにつけた。後方からのマクりを得意とするホリスキーにとって、この位置はそれほど予想外のものではない。

 ホリスキーの菅原騎手の胸中には、ひとつの作戦があった。前年の天皇賞・春でのホリスキーは、直線に入ってから一度先頭に立ちながら、一度差したはずのアンバーシャダイにもう一度差し返されて敗れている。ホリスキーは桁外れの瞬発力を持っている反面、繊細でかかりやすく、いい脚を長く使えないという乗り方が非常に難しい馬だった。前年は道中ややかかり気味だったことと、仕掛けが早過ぎたことが最後に災いした。ホリスキーの長所も短所も知り尽くしている菅原騎手は、ホリスキーの実力を存分に発揮させるため、道中で馬の機嫌を損ねないこと、そして仕掛けどころをいつもよりさらに遅らせて、直線に賭けることを心がけていた。半端に前に出そうとすれば、敏感なホリスキーはかかってしまう。菅原騎手の心配は、むしろそちらの方にあった。菅原騎手が動くとき、それは勝負を賭けるときしかなかった。

 だが、この信頼は過信とも紙一重となる。最後方で抑える競馬になったために、ホリスキーの戦法は極めて限定されてしまい、菅原騎手とホリスキーは後方から行くだけでなく、他の馬の位置取りの関係で馬場の外を外をと回らせられる結果となってしまった。

 それに対してモンテファストは、馬群のやや後ろ辺りにつけていた。かつては馬群の中が大の苦手だったモンテファストだが、吉永騎手はあえて馬群に入れることで、馬の闘争心を引き出そうとした。

 最後方、大外といえば、本格化する前のモンテファストも、そんな競馬を強いられることが多かった。それは、彼が馬群に入ることを怖がったためだったが、それゆえに彼は、優れた素質を持ちながら、それを開花させることができずに条件戦を低迷し続けていた。

 だが、今の彼はかつての彼とは違っていた。気性面の成長によって作戦に幅を持たせることができるようになったモンテファストは、そのメリットを十二分に生かして中団からの競馬を進めていた。

『道は開いた』

 吉永騎手は、常に常勝を望まれる存在だったモンテプリンスと違い、今度は気楽に手綱をとることができたという。馬の力を引き出せば好勝負になると信じていたのはモンテプリンスもモンテファストも同じだった吉永騎手だったが、モンテプリンスの時は、周囲の期待が重荷となって馬の力を出し切ることができないことも多かった。その点、モンテファストでは、彼自身も気楽にレースに臨める強みを十分に生かしていた。

 吉永騎手とモンテファストは、中団から進出する機会を虎視眈々と狙っていた。内からいつの間にか馬を外へ持ち出すと、第3コーナー過ぎの下り坂の辺りで勝負を仕掛けていった。鞍上のゴーサインを受けたモンテファストは、一気に進出していった。

 モンテファストが動くと、まるで魔法にかかったかのように、詰まっていたはずだった彼の前の空間が、ぽっかりと開いた。もはやモンテファストを止める者は、誰もいない。

 一方、後方待機から仕掛けどころを窺っていたホリスキーは、仕掛けが遅れたために前が壁になり、第3コーナーから第4コーナーにかけてさらに大外へ出るというロスに苦しんでいた。早めに仕掛けたモンテファストがうまく抜け出したのに、前年のミスにとらわれ過ぎたホリスキーはレースの流れをつかみ損ねたのである。この一瞬が、2頭の明暗を分けた。

『兄に続け』

 モンテファストの持ち味は、ややジリ脚気味ではあったものの、いい脚を長く使えるところにあった。直線に入ったモンテファストは、前にいた馬たちを次々とかわし、ついには先頭に立った。それでも、モンテファストの勢いは留まるところを知らない。

 そのころになって、後ろからはホリスキーがやって来た。しかし、いくら後方待機を決め込んだ末脚に斬れ味があっても、レースの流れに乗ってきたモンテファストの脚が止まらないのでは、直線だけで差し切ることには無理がある。せっかくのホリスキーの大外からの追い込みだったが、先に抜け出したモンテファストにはとうてい届きそうになかった。

 かつて兄が悲願の大レースを制したのと同じ淀を舞台に、先頭でゴールを駆け抜けたのは、弟のモンテファストだった。1馬身半ほど遅れて2頭・・・マル地の関西馬ミサキネバアーと、単勝支持率49%を集めた大本命馬ホリスキーが続いた。この2頭の争いは、写真判定の結果ミサキネバアーに軍配が上がり、ホリスキーは2着争いにすらハナ差敗れて3着に沈んだ。

 単勝6番人気のモンテファストと8番人気のミサキネバアーの組み合わせで決着したことにより、枠連は14410円の万馬券となった。モンテファストは2年前の天皇賞馬の全弟であり、自らも目黒記念を勝っている。また、ミサキネバアーも公営時代に東京王冠賞(南関東競馬の牡馬三冠最後のレースで、中央なら菊花賞に当たる)優勝、東京大賞典(同じく有馬記念に当たる)2着の実績を持っている。この日はいずれもファンの盲点となって人気を落としていた2頭による意外な決着は高配当につながった。

『中止になった京都見物』

 モンテファストのオーナーである毛利氏は、この日、妻を連れて京都へ応援にやって来ていた。もっとも、妻は競馬に興味がなかったため、レースの時は妻をホテルに残して1人で競馬場に行き、レース後は2人で京都見物に出かける約束をしていた。

 ところが、毛利氏自身の予想を裏切って、モンテファストは勝ってしまった。あわててターフに出ていったところ、松山師もあっけにとられた顔をしていたという。レース後、父に代わってコメントを出した松山康久調教師は

「脚に不安さえなければ、このメンバーを相手に勝ったって不思議はありませんよ。去年の天皇賞・秋でも、完調でありさえすれば勝てたと思っています」

と大きく出ているが、果たしてそのコメントは、松山吉三郎師の本心を語ったものなのかどうか。

 表彰台に立つことなどまったく考えていなかったために普段着で来ていた毛利氏は、おかげでこの時、

「この大事なときに、どうして無地の黒服を着て来なかったんだ」

と周囲から怒られてしまったという。当時の競馬界においては、Glの表彰式、それも天皇賞となると、正装が当然…というより、そうでないということ自体が考えられない時代だったのである。

 そんな驚きの表彰式の後、毛利氏はあわててホテルに電話を入れた。

「おい、京都見物は中止だ」
「何かあったんですか?」
「ファストが勝った」

 2年前のモンテプリンスの天皇賞制覇の時は嬉しいより先に「ほっとした」という毛利氏だったが、ファストの方も嬉しさよりも驚きの方が先に立っていたようである。

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