モンテファスト列伝~愚弟と呼ばれた天皇賞馬~
『燃え尽きたように』
こうして天皇賞兄弟制覇の偉業を達成したモンテファストだったが、7歳という年齢に加えて、もともと強くなかった4本の脚のうち実に3本までを深管骨瘤に蝕まれ、既にボロボロの状態だった。デビュー当時から500kgを超えていた彼の巨体は、この頃には既に550kg前後に達しており、脚の負担は重くなる一方だったのである。
天皇賞・春(Gl)に続く兄弟制覇を狙った宝塚記念(Gl)では13着に敗退し、秋もぱっとした成績は残せないまま、天皇賞・秋(Gl)14着を最後に現役を引退することが決まった。
現役を引退したモンテファストには、モンテプリンスと同様に種牡馬としてその名血を子孫に伝える役割が期待された。睾丸を1個摘出していたことから授精能力への影響が心配されていたものの、実際にはそれによる能力の低下はなく、人々を安心させた。
『滅びゆく名血』
しかし、種牡馬としてのモンテファストはあまり人気を集めることができなかった。ステイヤー色が濃すぎるモンテファストの血統は、スピード化という時代の流れの中で敬遠されるようになっていたのである。
かつて競馬の中心だった英国競馬は、緩やかながら確実に衰退しつつあり、代わって米国が新しい競馬界の盟主として浮上してきたことで、世界の競馬はスタミナからスピードへと質的な変化を遂げつつあった。そして、日本競馬もまた、その影響を受けずにはいられなかった。時代の流れはレース体系にも変化を与え、かつて主流だった長距離レースは大幅に減り、代わって短距離レースが整備されていった。そんな中で、内国産ステイヤー血統の居場所は、確実に狭まっていた。
モンテオーカンの子からは、モンテリボー、モンテプリンス、モンテファスト、そして中山記念3着などの実績を残したパーソロン産駒のモンテジャパンなども種牡馬入りしている。しかし、現役時代に「名血」ともてはやされた彼らの血統が、ほんの数年後には「時代遅れ」として見限られてしまうのだから、時代の流れの速さは残酷である。いや、あるいは変わったのは「時代」ではなく、彼らに対する人間の見方だけなのかもしれない。しかし、経済動物であるサラブレッドは、こうした人間の事情に大きく左右されざるを得ない哀しい宿命を背負っていた。
モンテファストは種付け頭数、繁殖牝馬の質ともあまり恵まれることがなかった。代表産駒は東京王冠賞(南関東Gl)2着のキングフォンテンといわれているが、それを超える産駒はついに出てこないまま、2000年には種牡馬登録を抹消された。
種牡馬として苦戦したのはモンテファストだけではなく、そこからさらに直系を伸ばしたのは、モンテプリンスの直仔で札幌記念(Glll)、愛知杯(Glll)を勝ったグレートモンテぐらいだった。しかし、そのグレートモンテも、産駒を1頭しか残せず死亡した。一時期日本競馬を席巻したモンテオーカンの血を引く兄弟たちだが、その直系はすでに失われ、牝系に細々と名を残すのみとなっている。
『守るべきもの』
21世紀に入ってからも、日本に古くからいる牝系からの活躍馬が大レースを制した例は少なくない。古くから日本で代を重ねているということは、その分、血統が日本に馴染んでいるということを示している。そして、そうした牝系の底力が最新の輸入牝馬に勝るとも劣らないことは、牝系からの活躍馬の存在が実証している。
モンテオーカンの牝系の底力が並々ならぬものであることも、その子供たちの活躍をみれば一目瞭然である。そんな一族の血が、短期間のうちに表舞台から見えなくなってしまったのは非常に残念なことと言わなければならない。しかし、彼女の牝系自体は、まだ現在に伝わっている。どんな名牝系にも雌伏の時代はある。そうした時代から再び世に出ることができるかどうかこそが、真の名牝系となれるかどうかの分水嶺である。
どんなに時代が変わっても、天皇賞兄弟制覇の偉業は色あせるものではない。その偉業を達成したモンテプリンス、モンテファストの兄弟の時代は遠い過去へと過ぎ去ったと言わなければならないが、彼らの記憶まで過去の遺物として葬り去ることがあってはならない。彼らの血統が、いつか再び現代に甦る日のために・・・。