TOP >  年代別一覧 > 1980年代 > ダイシンフブキ列伝~春風とともに去りぬ~

ダイシンフブキ列伝~春風とともに去りぬ~

『ダイシンフブキ』

 生まれた直後の兎選は、骨が弱かったこともあり、鎌田牧場の中でも「標準以下」という評価に過ぎなかった。

「あれにはどことなく賢いというか、ずるいというか、要領のいいところがあった」

というのが鎌田牧場の場長の弁である。普通の子馬は母親のそばをなかなか離れないのに、兎選だけは母親の後ろをついて歩こうとしなかった姿が、彼の印象に残っていたという。

 その翌年ころから「ぐんぐんよくなっていった」という兎選だったが、それでも彼の位置づけは「10頭ほどいた馬の中でも3本の指に入る」程度のものだった。ただ、気性的にはあまり問題がなく、調教は狂気の血を感じさせないほどスムーズに進んだようである。

 やがて美浦の柴田寛厩舎へと入厩することになった兎選は、芦毛の馬体から「吹雪」をイメージして、「ダイシンフブキ」という名前を与えられることになった。ちなみに、「ダイシン」とは馬主の冠名で、この馬主と柴田厩舎の組み合わせには、1969年の日本ダービー馬ダイシンボルガードがいる。

『出世街道』

 柴田厩舎で競走馬生活を始めたダイシンフブキは、中山芝1200mの新馬戦でデビューした。このレースでのダイシンフブキは、1番人気に応えて4馬身差の圧勝を遂げ、デビュー戦を飾った。

 続くりんどう賞(400万下)でも、1番人気に支持されたダイシンフブキは、やはり後続を3馬身突き放して危なげのない勝利を収めた。ダイシンフブキの戦績は、これで2戦2勝となった。

 この2戦でダイシンフブキの手綱を取ったのは、いずれも菅原泰夫騎手である。

「攻め馬に乗っていると、とてもオープン馬とは思えない・・・」

 ダイシンフブキのことをそう評していた菅原騎手だったが、レースでのダイシンフブキが見せる競馬は、デビューから間もない若駒らしからぬ安定したものだった。

 新馬戦、特別と連勝したダイシンフブキの次なる目標は、もう重賞しか残っていない。彼の次走は、京成杯3歳S(Gll)に決まった。重賞初挑戦ではあったが、それは同時に世代の頂点に向けて、避けては通れない道でもあった。

 ところで、この年の京成杯3歳Sは、3戦3勝で函館3歳S(Glll)を制し、3戦で2着につけた着差の合計は16馬身という女傑ダイナアクトレスが早くから参戦を表明していたため、ダイナアクトレスとの対決を恐れて出走馬がなかなか集まらなかった。ところが、そのダイナアクトレスが直前で回避してしまったことで、出馬表に残ったのはダイシンフブキを含めてわずかに5頭だけとなってしまった。危うくレース自体が不成立となる寸前だったわけである。

 わずか5頭の出走馬の中で、実績的に格上なのは、札幌3歳S(Glll)の覇者カリスタカイザーだった。ただ、そのカリスタカイザーは函館3歳Sでダイナアクトレスの8着に敗れて評価を大きく落とし、2戦2勝のダイシンフブキの存在感が大きくなる・・・はずだった。

 ところが、ふたを開けてみると、このレースの1番人気は1戦1勝のメジロラモーヌだった。メジロラモーヌは、名門オーナーブリーダー・メジロ牧場が送り出す秘密兵器とされており、ダートの新馬戦を大差勝ちして「大器」と噂されるようになっていた。

『府中に舞う』

単勝160円に支持されたメジロラモーヌに対し、ダイシンフブキは単勝250円の2番人気にとどまっていた。

 しかし、京成杯3歳Sは、波乱とともに始まった。1番人気のメジロラモーヌが、スタートとともに出遅れたのである。他の馬たちが何事もなくスタートを切る中で、キャリア1戦の若さを露呈した形だった。しかも、その後まもなくかかり気味に先頭へと躍り出たのもやはりメジロラモーヌとなると、あまりにもちぐはぐなレース運びといわなければならない。

 それに対してダイシンフブキは、落ち着いた競馬で好位につけた。レースの後には

「引っかかってしまって・・・」

と反省した菅原騎手だったが、メジロラモーヌに比べればましなもので、5頭立ての少頭数での「好位」なら、さほど気にすることもない。かかっていったメジロラモーヌがレースを引っ張る形になったため、菅原騎手は、ただ1番人気の馬を目標として競馬を進めていればよかった。

 直線に入ると、それまであまりにも粗い競馬を続けてきたメジロラモーヌは、勢いを失って沈んでいった。カリスタカイザー、ツキレッドがメジロラモーヌを尻目に上がっていく。・・・だが、ダイシンフブキの脚色が違う。2戦2勝の実績にもかかわらず、1戦1勝のメジロラモーヌに1番人気を奪われた鬱憤を晴らすかのように、彼の末脚は府中の直線で炸裂したのである。

『頂点を目指して』

 ダイシンフブキは、2番手のツキレッドを突き放すこと実に3馬身半、見事に重賞初制覇を飾った。無傷の3連勝、それも完勝に次ぐ完勝で重賞を制したことによって、気がつけば彼は、朝日杯3歳S(Gl)の最有力候補へとのし上がっていた。

 1985年当時の中央競馬の番組体系では、3歳重賞は10戦組まれていた(うち2戦は牝馬限定)。そのうち、この日までに終了したのは、京成杯3歳Sを含めて牡牝混合戦だけ6戦。・・・だが、この年の3歳馬は「牝馬上位」の傾向が強く、牡馬の勝ち馬は札幌3歳Sのカリスタカイザーとこの日のダイシンフブキだけである。重賞制覇と同時にそのカリスタカイザーも打ち負かしたダイシンフブキに、彼の関係者の鼻息は荒かった。

「馬が一生懸命走りすぎている。もうちょっとズブさがほしいところ。そうなれば、この馬はもっともっと強くなる」(柴田師)
「とにかくいいものを持った馬。あとは、もうちょっとずるさを身につけてくれれば・・・」(菅原泰夫騎手)

 そんな贅沢なコメントが連発されたのも、ダイシンフブキへの期待ゆえだったに違いない。ついには

「あの馬(ダイナアクトレス)と対戦してみたかった。いい勝負ができたかも」

と、この日回避した無敗の女傑の名前を挙げる余裕まであった。

 ダイシンフブキの次走は、朝日杯3歳Sに決まった。彼の前に立ちはだかる存在は現れないまま、世代王者への道は拓かれたのである。

1 2 3 4 5
TOPへ