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ダイシンフブキ列伝~春風とともに去りぬ~

『裏切られた実績』

 弥生賞には、例年その年のクラシック戦線を目指す強豪たちが集結する。1986年も例外ではなく、ダイシンフブキはもちろんのこと、朝日杯3歳S2着のダイナコスモス、重賞勝ちこそないものの、このところ急成長してクラシック戦線に名乗りを上げてきた新鋭アサヒエンペラーにサクラトモエオー、さらには大器と噂されるニッポーテイオー・・・といったメンバーが揃った。共同通信杯4歳Sを勝ったダイナガリバー、前年の関西の3歳王者カツラギハイデンといったあたりがスプリングSに回った(ただし、ダイナガリバーは最終的に回避)ものの、トライアルにしては贅沢な顔ぶれといえる。

 もっとも、最高の実績を誇るはずのダイシンフブキは、いくら充実したメンバーが揃っているとはいえ、単勝410円で屈辱的な3番人気に甘んじた。ダイシンフブキを上回る支持を得たのは、アサヒエンペラーとサクラトモエオーである。

 朝日杯3歳Sと京成杯3歳Sを勝った前年の3歳王者で、通算戦績も4戦4勝。これ以上の戦績はあり得ない完璧なキャリアだったが、そんなダイシンフブキが重賞初挑戦の2頭に人気で劣ったという事実からも、ダイシンフブキにとって2000mという距離が、どれほど強く不安視されていたかが分かるだろう。

『戦機至る時』

 柴田師は、レース前に

「もっといろいろな競馬を試してみたいのに、負け知らずの4連勝だから困っちゃう。これからも定石どおり、いい位置につけて抜け出すという今までのパターンで行くしかない」

と嘆いていた。その悩みのとおり、この日もダイシンフブキと菅原騎手がとったのは、逃げるニッポーテイオーの後ろ・・・2番手につけての競馬だった。

 ただ、ニッポーテイオーが形成したのが1000m63秒0という超スローペースだったため、他の馬たちはみなかかり気味になり、騎手たちは折り合いをつけることに苦労する羽目となった。その苦労は、2番手につけたダイシンフブキと菅原騎手も例外ではない。「スタンド前でかかり気味になった」という菅原騎手は、この日終始折り合いに苦労することになった。

 ダイシンフブキが流れをつかんだのは、第3コーナーを過ぎたころからだった。それまで緩やかだったペースがようやく上がり、前半の分まで速い流れになると、ダイシンフブキはその中で、それまで抑えていたものを解放するように進出を始めた。

 やがてニッポーテイオーをとらえて先頭に立ったダイシンフブキを追いかけてきたのは、朝日杯3歳Sと同様にダイナコスモスだった。人気を集めたアサヒエンペラー、サクラトモエオーらの末脚は鈍く、最後はダイシンフブキとダイナコスモスの叩き合いとなった。

『王手をかける』

 これまでは1600mまでのレースにしか出走したことのなかったダイシンフブキにとって、直線に入ってからはほぼ全体が未知の領域であり、ささやかれていた距離不安が真実ならば、いつ沈んでも不思議はないはずだった。

 だが、ダイシンフブキは終わらなかった。ダイナコスモスの猛追に対し、それまで軽んじられ続けてきた屈辱を晴らそうとするかのように、激しく抵抗する。

 そして、ダイシンフブキはダイナコスモスをクビ差凌ぎ、弥生賞をも押し切った。朝日杯3歳Sに続いて今度は皐月賞の前哨戦をも無敗の5連勝で制したのである。

 皐月賞を前にして、それまでマイラーと見られていたダイシンフブキが2000m、それも皐月賞と同条件のコースで勝ったことの意味は大きかった。皐月賞の有力馬の多くが集まった弥生賞で、多くのファンから「2000mでは通用しない」と軽視され、圧倒的な実績にも関わらず3番人気にとどまっていた馬が勝ったのである。それまでのレースに比べると着差はかなり縮まっていたが、こと皐月賞に関していうならば、通説的な競馬観は現実によって修正を余儀なくされた。

「2000mを経験し、克服したことは大きなプラスになると思う。本番での上積みも十分ありますよ」

 柴田師がそう語ったとおり、ダイシンフブキの皐月賞に向けた見通しは一気に拓けた。さらに、かつて京成杯3歳Sで破ったメジロラモーヌが、皐月賞の1週間前に開催された桜花賞(Gl)を制覇したことも彼の評価を押し上げる要因として加わった。そして訪れた、皐月賞(Gl)の本番当日。ダイシンフブキは、今度こそ1番人気に支持された。単勝330円というところにダイシンフブキを信頼しきれないファンの葛藤が見え隠れしてはいたものの、この人気は弥生賞で距離の壁を克服した彼自身が勝ち取ったものだった。

『最後の戦い』

 こうして本番の始まりとともにようやく「皐月賞の主役」の地位を手にしたダイシンフブキが皐月賞で選んだのは、やはり4、5番手という好位からの競馬だった。

 弥生賞は、前半1000mが63秒0という超スローペースだったのに対し、皐月賞は、60秒2という平均的、あるいはやや速い流れとなった。そうなると、同じ「好位」とはいっても、ダイシンフブキ自身の感覚が違ったものとなっていたことは、想像に難くない。

 ただ、弥生賞のレースの結果、ダイシンフブキ陣営の全体が共有したのは、「折り合いさえつけば、2000mでも大丈夫」という自信だった。実際に2000mのレース、それも相手関係もある程度揃ったステップレースを勝ったのだから、それはある意味で当然のことといえるだろう。・・・そして、この日はペースが速い分だけダイシンフブキは折り合いを欠くこともなく、むしろ順調にレースを進めている感触さえあった。

 菅原騎手が、道中は好位につけるだけでなく、さらに早めに動き、第4コーナーで積極的に先頭へ並びかけていく競馬をしたことには、そんな裏づけがあった。ダイシンフブキもそれに応え、逃げてレースを作っていったメイショウタイテイを初めとする先行馬たちをあっさりつかまえて先頭に立ち、あとは前々年のシンボリルドルフ、前年のミホシンザンに続く3年連続の「無敗の皐月賞馬」となるべく栄光のゴールへと飛び込むだけ・・・のはずだった。

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