ダイシンフブキ列伝~春風とともに去りぬ~
『溶けてゆく夢』
ところが、ダイシンフブキの見せ場はそれまでだった。ダイシンフブキの末脚が、期待ほどではない。後方からは、ダイナコスモスが迫ってくる。朝日杯3歳S、弥生賞とも退けた相手のはずだが、この日は様子が違う。「最後のもうひと伸び」がないダイシンフブキなら、これまで2度対戦して2度とも負けているダイナコスモスでも、つかまえることは簡単・・・。
ダイナコスモスは、ダイシンフブキをとらえると、そのまま先頭に踊り出た。ダイシンフブキに、差し返す余力はもう残っていなかった。そして、さらに押し上げてくる後続の馬群も・・・。
1番人気のダイシンフブキは、直線半ばで馬群の中へと消えていった。無敗のまま皐月賞を勝つ・・・その夢は、中山の直線半ばで溶け消えた。
ダイシンフブキは、7着に沈んだ。生涯初の敗戦は、掲示板にすら残れない決定的なものだった。しかも、ダイシンフブキの悲運はそれだけにとどまらなかった。レースの後、ダイシンフブキの骨折が判明し、ダービーを前に戦線を離脱したのである。一説によると、皐月賞前日にはダイシンフブキの脚に既に異常があったため、ダイシンフブキ陣営は出走取り消しを模索したものの、1番人気でありかつ単枠指定ではなかったダイシンフブキが出走を取り消すことで、既に発売していた8枠絡みの馬券についてのトラブルが起こることを嫌ったJRAはそれを認めず、その結果レース中の骨折という結果に至ってしまった・・・とも伝えられている。
こうして1985年の最優秀3歳牡馬・ダイシンフブキの季節は春風とともに去り、ダイシンフブキがその後再びターフに戻ってくることはなかった。彼の最初の敗戦は、最後の敗戦となった。
『風紋』
ターフを去った後は種牡馬として供用されることになったダイシンフブキだったが、馬産地からの人気は芳しいものではなかった。供用初年度に彼のもとへ集まった繁殖牝馬は、わずか29頭だった。その後も21頭、25頭・・・。
種牡馬としてのダイシンフブキが不人気だったことの理由として、彼の全盛期があまりに短く、そのイメージがつかみにくいものだったことが挙げられる。当時の馬産地には、内国産で早熟のスピード馬・・・そんな種牡馬が広く受け入れられるような土壌はまだなかった。さらに、彼自身に主流血統のひとつであるNasrullahの多重インブリードがかかっていたことで、可能な配合がさらに限定されてしまったという不運もあった。
ダイシンフブキに対する評価は、産駒がデビューした後も変わらなかった。彼の産駒からはオープン級をにぎわせる馬はもちろんのこと、上級条件まで進出する馬も現れなかったのである。配合しにくい上に産駒成績も今ひとつとあっては、種牡馬として人気が出るはずもない。
交配数が年々減少する一方となったダイシンフブキは、1995年を最後に用途変更となった。種牡馬としては名を成すことができないまま乗馬となったダイシンフブキは、その後いくつかの牧場を転々とした後、人知れず消息不明となっていった。
『いまを生きる』
これがダイシンフブキというサラブレッドの戦いであり、馬生である。・・・近年はサラブレッドの余生への関心が高まった影響で、Gl馬の死亡がニュースとして流れることは珍しくないが、ダイシンフブキの場合は、そうした機会さえなかった。
ダイシンフブキは、1985年9月に新馬戦へ出走し、競走馬としてのデビューを果たし、翌86年4月の皐月賞を最後にターフから姿を消している。彼が競走馬として活躍したのはわずか半年強という短い期間に過ぎない。そして、当時の中央競馬は、今と比べて人気もなければ注目もされていなかった。この時代にGlをひとつ勝った「だけ」の彼は、一般マスコミはもちろんのこと、競馬マスコミからさえ、その後の詳しい動静を伝えられることさえないまま、消息不明となり、文字通り「消えていった」。
「ダイシンフブキ」・・・今の競馬界で彼の名前を聞くことは、ほとんどない。「オグリ以降」の競馬ファンならば、そもそも彼の名前を知らないというファンも少なくないだろう。彼の直子の世代はとっくに競馬場から姿を消し、血統表でさえも、種牡馬入りするような大物牡馬はもちろんのこと、繁殖牝馬となった牝馬すら、果たしてどれほどいたかどうか分からない程度である。そんな一族への血統的な期待度を考えると、ダイシンフブキの血は、既に滅びているか、仮に滅びていないとしても、既に確定した滅びに向かっている可能性が極めて高いと言わなければならない。
しかし、ダイシンフブキというサラブレッドを知らないファンが増えたとしても、彼が中央競馬の歴史を彩った1頭であるという事実は変わらないし、その価値も下がることはない。その重みは、彼が消えた現在、そして血統が滅び去った未来にあっても、なんら変わりのないものである。
ダイシンフブキの季節・・・それは、冬の予感とともに訪れ、春風とともに去っていった。だが、彼が輝いたほんの短い栄光は忘れられたとしても、彼が刻んだ歴史は、現在の、そして未来の競馬の礎として、確かに生き続ける。