TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > サイレンススズカ列伝~永遠の幻~

サイレンススズカ列伝~永遠の幻~

『うらめしき栗毛』

 この世に生れ落ちた、後のサイレンススズカを見たときの稲原牧場の人々の反応は、複雑な感慨が入り混じったものだった。稲原牧場では、それまでにたくさんの馬をこの世に送り出してきたが、そんな彼らにも、その子馬の美しさは際立ったものに見えた。馬体も小柄ではあるけれどとても均整の取れたものだった。

 しかし、その反面で栗毛というのは気にかかった。サンデーサイレンスは青鹿毛、ワキアは鹿毛だったから、栗毛の仔が出てくるというのは稲原牧場の人々にとっても予想外のことだった。普通仔が産まれたときに馬産家が期待するのは父、あるいは母の良さを引き継いだ仔が産まれることだから、毛色は競走成績と直接関係しないとはいえ、父とも母とも似ても似つかない毛色の仔が産まれることは、うれしいこととはいえない。当時、馬産界ではサンデーサイレンス初年度の活躍産駒の傾向や各地から伝え聞こえてくる評判馬の噂から

「サンデーの仔は青鹿毛か黒鹿毛しか走らない」

というあやしげな風評も流れていた。かつて「芦毛馬は大成しない」「テスコボーイの栗毛は走らない」といった噂に翻弄された馬産界だが、この時期ですら毛色についての迷信深さはなくなっていなかったということを示す、良き実例の一つである。

『その愛しさゆえに』

 そのような風評とはまったく関係なく、ワキアの仔の所有者はたちまち決まった。「スズカ」の冠名で知られ、ワキアの初年度産駒でワキアの仔の姉にあたる牝馬(ワキアオブスズカ)も所有していた永井啓弐氏が、誕生の知らせを受けるとほどなく稲原牧場まで駆けつけ、購入を決めたのである。

 もともと永井氏は稲原牧場や橋田師と親しく、稲原牧場がワキアを輸入したときにも彼女を見に来た永井氏は、スピード感溢れるワキアに感心して稲原氏に

「子供が生まれたら真っ先に見せてください」

と頼み込んでいた。そして、ワキアが初年度に牝馬を産んだときに、基礎牝馬とするために牧場に残したい、と売却を渋る稲原氏に対して永井氏が発した決め台詞は、

「私が所有するのは現役時代だけで、引退したら絶対に牧場に戻します。それから、ワキアの仔は今後私が全部買わせていただきます」

というもので、その言葉に稲原氏もようやく心を動かし、ワキアの初仔は永井氏の勝負服で競馬場へと送り出された。その約束があったため、稲原牧場が最初に連絡したのは永井氏だった。無事にこの世に生れ落ちた時点で、ワキアの2番仔の勝負服はほぼ決まっていたのである。

 とはいえ、幼き日のサイレンススズカがすべての人にとって当時から後の活躍を予想させる存在だった、というわけではない。むしろ、競走馬としての能力よりはその可愛らしさが目立つのが、幼き日のサイレンススズカの最大の特徴だった。後にサイレンススズカの幼駒時代について尋ねられるようになった稲原氏も

「小さい頃のエピソードが、本当に何もないんだよね。あれば話してあげたいんだけど…」

と答えに困るほどだから、その実態も想像がつくというものである。稲原牧場でのサイレンススズカの評価は、人なつっこさ、可愛らしさは印象に残るけれど、肝心の競走馬としての能力は未知数というものに過ぎなかった。

 永井氏も、買ったばかりの頃からこの馬のことがとても気に入っていたというが、その理由も、競走馬としての将来性というよりは、最初に見に来たときに印象に残った、彼のとても楽しそうに緑の大地を駆け回るその可愛らしさ、そして気品に満ちて賢そうな顔だった。

『ヘンな奴』

 サイレンススズカは、やがて競走馬となるための育成施設である二風谷軽種馬育成センターへと送り込まれた。ここはトウカイテイオーが幼年時代を過ごしたことでも有名な育成施設である。

 ここでのサイレンススズカ評も、当初は稲原牧場時代のそれと似たようなものだった。手のかからなさ、「家に連れて帰ってペットにしたくなるような」とまで言われた人なつっこさだけが目立つ2歳馬―。この馬が目立つ点を他に探そうとしても、せいぜい厩舎の中に入れるとなぜかいつも左回りにくるくる回る、そんなヘンな癖があることぐらいだった。

 しかし、そんな評価は、馴致がある程度進んでいよいよ競走馬としての調教が始まると、一変した。乗り役がまたがって走らせてみると、その走りが他の馬とはひと味もふた味も違っていたのである。力強い蹴り、大きな跳び、無理のない走法。その何もが競走馬としての並々ならぬ才能を物語るものだった。

「こういう馬が重賞を勝つんだろう」
「いや、重賞どころじゃない。この馬ならダービーにいけるぞ」

 サイレンススズカの才能は、馴致が進んでデビューが近づくほどその輝きを増していった。そんな彼を見るにつけ、人々のサイレンススズカの将来性への期待は高まっていった。

『戦慄のデビュー』

 いよいよ競走馬としての馬体ができてきたサイレンススズカの入厩先は、母を日本へ連れてきた橋田厩舎に決まった。

 サイレンススズカが橋田厩舎に入厩したのは3歳11月で、同期の3歳馬の中でもかなり遅い方だが、それは橋田師がサイレンススズカの将来性を見込んで馬の成長をじっくりと待つよう頼んだためである。そんな橋田師の方針は入厩後もしばらく変わらず、栗東でサイレンススズカの本格的な調教が始まったのは、4歳になってからだった。

 しかし、サイレンススズカはたくさんの人々の期待にたがわず、本格的な調教が始まったばかりの明け4歳馬とはとても信じられない走りを見せて、周囲を驚かせた。初時計でまったく追わずにいきなり坂路800m52秒3というタイムをたたき出し、さらに新馬戦に備えた追い切りでは古馬準オープンクラスの馬を置き去りにした。もともとサイレンススズカの器には相当の自信を持っていた橋田師だが、このときはさすがに

「年上の馬と入れ替わってるんじゃないか」

と己の目を疑ったという。

 サイレンススズカのデビュー戦は1997年2月1日、京都・芝1600mの新馬戦に決まった。

「大器サイレンススズカ!」

 この噂は、この頃には栗東でも既に評判になっていた。サイレンススズカを含めて11頭がエントリーしたこのレースだったが、サイレンススズカの人気が単勝130円という一本かぶりになったのも、調教での連日の卓越した動きから、既にこの馬が人々の注目を集める存在となっていたゆえである。

 そして、サイレンススズカのレースは、圧倒的1番人気の名に恥じないものだった。スタートしてすぐに先頭に立つとそのまま後ろを引き離し、直線になってさらに突き放す競馬で7馬身差の圧勝を遂げたのである。

 この日のレース前に橋田師から

「なるべく馬ごみの中で競馬をさせてくれ」

と言われていたのは鞍上の上村洋行騎手だったが、馬なりで馬につかまっていただけなのにこんな競馬をされたのでは、せっかくの指示も守りようがなかった。こうして大器サイレンススズカは、衝撃的なデビューを飾ったのである。

『噂の馬』

 しかし、橋田師らサイレンススズカの関係者にしてみれば、新馬戦を圧勝したぐらいで喜んではいられなかった。彼らの目は、もっと先、そしてもっと上に向けられていた。

 デビュー戦を圧勝で飾ったサイレンススズカの次走として橋田師が選んだのは、皐月賞トライアルの弥生賞(Gll)だった。弥生賞といえば、皐月賞トライアルの中でも毎年クラシックの有力候補たちが大挙して集結してくる重要レースだが、この年も朝日杯3歳S(Gl)3着、ホープフルS(OP)を勝ったエアガッツや、京都3歳S(OP)を制したランニングゲイル、そしてジュニアC(OP)を逃げ切ったサニーブライアンらがエントリーしてきていた。実績馬がそろった14頭の出走馬中で、本賞金400万円の馬はサイレンススズカただ1頭だった。

 この異例のローテーションには、サイレンススズカの潜在能力への期待があったことも確かだが、それに加えて別の理由もあった。4歳春の大目標となるダービーを見据えると、重賞であるここで2着以内に入って本賞金を加算できれば、その後のレースでずいぶん楽ができるからである。この時点で1勝馬であるサイレンススズカにとって、ダービーまでの期間はあまりに短く、もはや無駄は許されなかった。

 もちろん、この選択が楽なものであるはずがない。強い相手に加えて、栗東から中山への長距離輸送という越えなければならない壁も高かったが、

「サイレンススズカならやってくれるのではないか」

 橋田師たちは、サイレンススズカの器、そして夢に賭けていた。

 サイレンススズカへの期待は、既にサイレンススズカ関係者だけにとどまるものではなかった。この年は、サンデーサイレンス産駒の中から確固たるクラシック候補がまだ現れていなかった。しかし、ここ二年クラシックを独占してきたサンデーサイレンス産駒の爆発的な活躍を知る人ならば知る人ほど、

「そんなはずはない」

ということで、サンデーサイレンス産駒の期待馬を血眼になって探していたのである。そういった人々にとって、1戦1勝ながら底知れぬ大物感を漂わせていたサイレンススズカは、格好の標的だった。

「いよいよ今年もサンデーの真打ちが現れたらしい」
「今年のダービーはこいつで決まりだ」

 弥生賞を前にそんなささやきがどこからともなく駆け巡った結果は、1勝馬にすぎないサイレンススズカが1番人気エアガッツともあまり差のない2番人気の単勝350円にまで支持される現象となって現れた。一番実績のない馬に対して与えられた、2番目の支持。前走で見せた桁違いの走りは、まさに「噂の馬」というにふさわしいものだった。

「遅れてきた大器がどんな走りをみせてくれるのか」

 弥生賞当日、サイレンススズカはパドックでいささか入れ込んでいたように見えた。初輸送でイライラしていたのかもしれないが、それは彼の天賦の才がカバーしてくれるだろう。彼の才は、それほどに卓越したものなのだ…。青空のもと、サイレンススズカはファンファーレに送られて、たくさんの人々の熱い視線を背にゲートへと向かった。

『混迷の中山』

 ところが、その直後に、中山競馬場は誰もが予想しなかったアクシデントで混乱の渦に包まれた。ゲート入り完了後、ゲートが開く前なのに、14個の枠の中のひとつで、突然出走馬の1頭が大騒ぎを始めたのである。

 観衆のほとんどは一瞬何が起こったのか理解できなかったが、やがてその馬が何なのかを知るに至って場内は騒然となった。…それもそのはず、大騒ぎをしているのは2番人気のサイレンススズカだった。ゲート内で立ち上がったサイレンススズカはたちまち上村洋行騎手を振り落とし、次に今度は器用にもゲートの下をくぐって勝手に外に出てしまったのである。

 サイレンススズカはすぐに取り押さえられたものの、他の馬はいったんゲートから出され、発走は延期されることになった。たいへんな失態だった。馬体検査がされて「異常なし」とされ、レースにはそのまま出走することになったサイレンススズカだが、当然のように大外枠発走の制裁を受けてしまった。

 そんな大混乱の中、振り落とされた上村騎手は、痛みを懸命にこらえながら立ち上がり、サイレンススズカに再び騎乗していた。

「この馬だけは、他人に渡したくない…」

 激しい痛みで立つことさえも困難だった彼を支えたものは、その思いだけだった。ここで他の騎手に手綱を譲ってしまえば、これほどの馬が次以降のレースで騎手としての実績に劣る自分に戻ってくる保証はない。いや、戻ってくるはずがない。

 しかし、いったん失われたリズムは、そうやすやすと戻るものではない。平常心を失った馬と、痛みで馬にまたがるのがやっとの騎手の組み合わせでは、なおのことである。

 再スタートとなって、今度こそゲートは無事に開いたのだが、中山競馬場は再び別のどよめきに支配された。まとまったスタートの中でただ1頭だけ、大外のサイレンススズカが出遅れてしまったのである。

「やっぱりか!」

 気の早いファンが投げ捨てた馬券が舞い散る。サイレンススズカがゲートを出たとき、他の馬との差は、もうおよそ10馬身ほどついていただろうか。完全に流れに乗り遅れたサイレンススズカの競馬は、このとき終わった…はずだった。

『狂気の才』

 ところが、サイレンススズカの恐ろしいまでの能力が発揮されたのは、その後のことだった。完全に置いていかれたはずのサイレンススズカは、何とか馬群の後ろの方に取り付いたかと思うと、みるみる順位を上げていったのである。

 第1コーナーでは間違いなくどん尻だったはずのサイレンススズカは、コーナーごとに確実に何頭もを抜き去り、第4コーナーでは第二集団にとりつき、なんと3、4番手まで上がってきていた。道中での走りは、完全に口を割りながらの、折り合いもくそもないめちゃくちゃな状態だった。それなのに、信じられないようなまくりで先頭をうかがえる位置まで上がってきたその走りは、文字通り、天賦の才のみによるものにほかならない。サイレンススズカが見せた才のとてつもない大きさを目の当たりにした人々は、あわやの大逆転劇を想像して、一瞬言葉を失った。

 ただ、サイレンススズカにいくら才能があっても、この時点で、そんな無茶をしながら、そのままゴール板まで押し切れるほど、競馬は甘くなかった。さすがのサイレンススズカも直線に入ると力尽き、後続の馬に次々と差されていった。レースはランニングゲイルが抜け出して3馬身差の圧勝を遂げたが、サイレンススズカはランニングゲイルに遅れること1秒5の8着に終わった。

 敗れたとはいえ、サイレンススズカも約2秒の出遅れからいったん見せ場を作ったことで、その潜在能力を示した。しかし、「潜在能力を示した」とひとことで表すには、この日は多くのことがありすぎた。人々は、この日のレース以降、サイレンススズカに対してこんなイメージを形作っていった。

「恐ろしいまでの才能と、それを制御しきれない狂気を持った馬」

と。

『もうひとつの真相』

 このように、弥生賞(Gll)は当時、一般のファンの間ではサイレンススズカの「狂気」を示す事件として語られた。また、玄人筋では

「あの体勢からゲートをくぐるなんて、体が柔らかいんだなあ」

とヘンなところで感心する向きもあった。

 しかし、そのような捉え方では納得できなかった人もいた。橋田師、そしてサイレンススズカにいつも接していた加茂力厩務員も、その一人だった。

 彼らはいつもサイレンススズカを見て、その気性もよく知っていた。サイレンススズカは、日頃はおとなしくて人なつっこい馬で、あんな暴れ方をするなど信じられないことだった。加茂厩務員は、この日の真相について

「ゲートまでついてたオレがいなくなったから、寂しくてオレを探してゲートを出ちゃったんじゃないか」

と今なお固く信じており、この説には橋田師も賛成している。悪いことに、この日のサイレンススズカは枠番が偶数で、ゲートに入った後もしばらく枠番が奇数の馬のゲート入りを待たなければならなかった。あるいは初めての長距離輸送で、馬運車の中でもずっと寂しい思いをしていたことも影響したのかもしれない。

 この日、サイレンススズカは栗東に帰る馬運車の中で大暴れをした。暗い車の中に1頭閉じ込められたサイレンススズカは、まるで自分がすべてに見放された孤児であるかのように寂しそうで、悲しそうな声をあげていたという。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
TOPへ