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サイレンススズカ列伝~永遠の幻~

『一年前の秋』

 日本ダービーの後、二風谷軽種馬育成センターへと放牧に出されたサイレンススズカは、さすがに春の過酷な戦いが響いたのか、かなり疲れた様子だったという。しかし、そんなサイレンススズカも、涼しい北の大地で夏を越すとすっかりリフレッシュし、函館競馬場を経て栗東へと戻ってきた。サイレンススズカにとって、戦いの中で過ごす初めての秋が、始まろうとしていた。

 大きな期待と裏腹に、目立った実績はプリンシパルS(OP)優勝だけに終わったサイレンススズカの4歳春は、橋田師にとって到底満足し得るものではなかった。その反省から、サイレンススズカと彼を取り巻く人々の試行錯誤が始まった。

 まず、初戦の神戸新聞杯(Gll)では、春とはうって変わって、抑える競馬をやめることにした。サイレンススズカの場合、実力があることは分かっており、問題はその実力をいかに発揮させるかにある。そこで、春は行きたがる性格のサイレンススズカに抑えた競馬を覚えさせようとしたが、実際には馬を御することができず、実力を発揮させることができなかった。そうであれば、今度は馬に気分よく走ってもらうことを重視し、馬の走る気に任せよう、ということになったのである。

 その結果は、マチカネフクキタルの2着というものだった。この日サイレンススズカを差し切ったマチカネフクキタルは、後の菊花賞馬ではあるが、当時はまだプリンシパルS(OP)で2着に入ったことが目立つ程度の存在に過ぎない。この結果も、サイレンススズカにとって、到底満足し得るものとはいえなかった。

 ただ、この日自由に逃げさせてもらったサイレンススズカの走りは見るからに気持ちよさそうであり、抑えたときのような窮屈さはどこにもなかった。この日の敗因は馬のせいではなく、第4コーナーでセーフティリードではないのにセーフティリードと誤信し、馬をそれ以上追わなかった上村騎手の油断によるものとされた。上村騎手は、このレースを最後にサイレンススズカの鞍上から降板させられ、その後二度とレースに騎乗することはなかった。

『初めての天皇賞』

 サイレンススズカの次走は、神戸新聞杯(Gll)2着で優先出走権を得た菊花賞に見向きもせず、天皇賞・秋(Gl)に決まった。サイレンススズカは母系がもともと短距離血統で、サンデーサイレンスも本質は長距離馬でない、という血統的な問題が主な理由だった。

 天皇賞・秋(Gl)といえば、古馬たちの大目標として古馬も含めた強豪が集結するレースである。2000mという距離はいかにもサイレンススズカ向きといえたが、敵のレベルも、これまでとは比べ物にならないほど高い。春の中長距離戦線の中心となったマヤノトップガンは故障で引退、マーベラスサンデーも故障で休養中、サクラローレルはフランスへ遠征中・・・と、本来そこにいるべき有力馬たちが欠けてはいたが、それでも前年に史上初めて4歳で天皇賞・秋を制したバブルガムフェロー、前年のオークス馬で、後に年度代表馬に輝いた女傑エアグルーヴが出走し、人気の中心となっていた。

 それに対して、サイレンススズカはどうだっただろうか。確かに、当時の天皇賞・秋(Gl)では、2年続けてサンデーサイレンス産駒の有力4歳馬が出走し、結果を残していた。1997年にジェニュインが2着と連対を果たし、1998年にはバブルガムフェローが優勝しているという実績は、サイレンススズカにとって希望となり得るものだった。しかし、春のクラシックで主役を張ったジェニュイン、前年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、骨折がなければ春のクラシックのいずれかをとった可能性は非常に高いといえるだけの実績を持っていたバブルガムフェローと比較した場合、主な勝ち鞍がプリンシバルSというサイレンススズカは、大きく見劣りすると言わざるを得ない。

 この日は鞍上にベテランの河内洋騎手を迎えたサイレンススズカだったが、少なくともこの時点では、前年、前々年に好走した2頭の4歳馬に比べると相当の格落ちを否めず、無謀な挑戦といわれても仕方のない選択だった。

『原型』

 下馬評では高い潜在能力が穴党の注目を集め、単勝1760円の4番人気に支持されたサイレンススズカだったが、当日の作戦は、

「奇襲か」

と思わせるものだった。歴戦の強豪を敵に回したサイレンススズカは、この日これまでにない大逃げを打ったのである。

 この日の大逃げは、あらかじめ意図してのものではなく、河内騎手が、スタート後にサイレンススズカを抑え切れないとみるや、直ちに馬の走る気に任せる作戦に切り替えた結果だったが、前半1000mを58秒5のハイペースで引っ張り、向こう正面で後続に10馬身以上の大差をつけて逃げるその走りは、翌年の完成期に見せる走りの原型にほかならない。

 もっとも、逃げという作戦は一緒でも、能力はまだ完成していなかった。第4コーナーでも後続に約5馬身差をつけて逃げ、この時点ではあわやと思わせる走りを見せたサイレンススズカだったが、直線坂下で前年の覇者バブルガムフェローに捕まると、後は完全に力尽き、馬群に呑み込まれてしまった。サイレンススズカは結局、掲示板にすら残れない6着に敗れた。

 しかし、この日のサイレンススズカの大逃げは、6着という結果だけでは言い表せない清々しさを感じさせるものだった。また、6着で勝ったエアグルーヴ、2着のバブルガムフェローからは差をつけられたものの、3着以下とはほとんど差がなかったことも事実である。この時点でも、逃げがハマった時のサイレンススズカの実力は、並みの古馬にはまったく引けを取らないものだった。

『迷走』

 天皇賞・秋(Gl)の後、もともとの予定ではサイレンススズカは京阪杯(Glll)に出走する予定だった。当時の京阪杯は京都の芝1800mコースで行われるGlllで、中距離馬サイレンススズカにとってはちょうどよい距離である。格としても、重賞未勝利であることを思えば、ちょうどいい水準のレースに思われた。

 しかし、その予定を狂わせたのは、サイレンススズカが香港国際カップ日本代表に選出されたという知らせだった。

 香港国際カップは12月に行われる芝1800mのレース(当時、国際Gll)である。普通に考えれば、重賞未勝利馬が気楽に出走できるレースではない。ところが、この年は他にエントリーした馬との力関係から、サイレンススズカが選出されてしまったのである。

 登録こそしていたものの、橋田師もサイレンススズカの選出についてはあまり期待していなかった。京阪杯(Glll)出走というのは香港国際C不出走を前提にした予定であり、その前提が変わった以上、出走予定の大幅な練り直しは避けられない。

 この年の香港国際Cは、12月14日に開催されることになっていた。サイレンススズカにとって初めての海外遠征であるということを考えると、準備期間は少しでも長いほうが良かった。そうすると、11月22日の京阪杯に出走することは、得策ではない。

 そこで、サイレンススズカの次走は、出走が1週間繰り上がって急きょマイルCS(Gl)に変更された。

『勝算無き戦い』

 そんな経過で急遽出走が決まったマイルCS(Gl)は、そのドタバタに比例するかのように、あらゆる面でちぐはぐなものとなってしまった。サイレンススズカにとって、この時は万全の態勢で戦える状況とは言い難かった。

 レースを控えた馬の微妙な体調からは、出走レース自体の変更が大きな不利となる。しかも、この時は天皇賞・秋(Gl)からわずかに中2週という過酷なローテーションで、距離も新馬戦以来となるマイル戦である。相手関係も、Glにふさわしく、後に世界最強マイラーへと駆け上がるタイキシャトルをはじめとして、強く、そしてマイル戦を得意とするライバルたちが揃っていた。その中でもサイレンススズカにとって最も不運だったのは、出走馬の中に桜花賞馬キョウエイマーチがいたことだったかもしれない。キョウエイマーチはサイレンススズカやタイキシャトルと同じ4歳馬だが、サイレンススズカと同じく強烈な逃げを最大の武器とする馬で、桜花賞では泥まみれの不良馬場の中、メジロドーベルを5馬身差で完封した実績を持つ純正マイラーでもあった。

 まったく同じタイプの逃げ馬が2頭いることは、それぞれにとって大きなマイナスである。激しい逃げ比べになっても、実績上位、逃げ一手のキョウエイマーチは決して退かない。そのことが分かっていただけに、サイレンススズカにとっては戦う前から厳しい戦いであることは明らかだった。

 しかも、この時サイレンススズカ陣営は、調整過程で致命的なミスを犯してしまった。厩舎の中でいつもぐるぐる回っていたサイレンススズカを止めるため、サイレンススズカの厩舎に畳を吊るしてしまったのである。

 サイレンススズカには、入厩前から厩舎内でいつもぐるぐる回るというヘンな癖があった。罪のない癖にも見えるが、そう広くもない厩舎をあまりに凄いスピードで回るものだから、周りの人々は、身体の一部を壁にぶつけて怪我でもするのではないかと、いつも冷や冷やしていた。

 そのことはサイレンススズカを担当する加茂厩務員も同様で、それまでにもいろいろ手を尽くしたのだが、サイレンススズカはどうしても厩舎内で回ることをやめてくれない。そこで、マイルCS(Gl)を前にして、加茂厩務員はついに強硬手段に出たのである。

 狭い厩舎の中でさらに畳をぶら下げられては、さすがのサイレンススズカも動くことができなくなった。しかし、回れなくなったサイレンススズカは、いつになくイライラしているように見えたという。

 その結果かどうか、マイルCS(Gl)当日のサイレンススズカは、普段に比べて明らかに入れ込んでいた。自由人の自由を奪うことが決していい結果につながらないというのはよくある話だが、回る自由を奪われたサイレンススズカも、この時は自由を奪われた囚人のような気持ちになったのかもしれない。

『ごめんよ、スズカ』

 スタートとともに飛び出したサイレンススズカだったが、レースの展開も不向きで、案の定キョウエイマーチも先手を譲ってはくれず、激しい逃げ比べになってしまった。サイレンススズカ、キョウエイマーチという2頭の逃げ一手の馬が競り合ったことで、ペースはつり上がった。1000m地点でのラップが56秒5では、いくらなんでもめちゃくちゃと言わざるを得なかった。

 狂気のレースの代償は、15着という生涯最悪の敗戦だった。サイレンススズカは直線入り口あたりではもう一杯になり、馬群に沈んでいった。

 しかし、同じようにレースを引っ張ったキョウエイマーチが2着に踏ん張ったのだから、サイレンススズカの敗因を一概にペースのせいにすることはできない。レース後にはサイレンススズカがレース中に鞍ずれを起こしていたことも明らかになったが、やはり敗因はレースに至る調整過程が万全でなかったことが響いたというべきだろう。

 レースの後、加茂厩務員はすぐに厩舎に吊るした畳を外し、サイレンススズカに詫びた。

「ごめんな、余計なことをして…」

 それが加茂厩務員の、サイレンススズカへの正直な気持ちだった。

『無声鈴鹿』

 マイルCS(Gl)で惨敗したサイレンススズカだったが、香港遠征の予定に変更はなく、シャンティ競馬場へと旅立っていた。

 だが、このとき鞍上に、河内騎手の姿はなかった。香港国際カップ(国際Gll)と同日に日本で行われるスプリンターズS(Gl)に、騎乗予定があったのである。そして、サイレンススズカの鞍上に指名されたのは、日本の騎手界に君臨するナンバーワンジョッキー・武豊騎手だった。

「無声鈴鹿」

 それが、香港風に漢字名をつけられたサイレンススズカだった。しかし、日本では、一般紙はもちろんスポーツ紙ですら、「無声鈴鹿」の遠征を大きく報道するところはなかった。国内最強馬サクラローレルのフォワ賞遠征、最下位惨敗の痛みは、報道する者、そして競馬人たちの中に深い傷を残していた。日本最強馬が通用しなかった世界の競馬に挑む重賞未勝利馬が、巨大な風車に戦いを挑むドンキホーテに見えたとしても、仕方のない話だった。

 レースの翌日、一部のスポーツ紙にサイレンススズカが5着に敗れたという記事が、ほんの小さく載った。その記事を読んだ奇特な人々の感想も、多くは

「やっぱりか」

というものだった。あるいは、

「重賞未勝利馬が、よくやった」

というものもあったかもしれない。サイレンススズカの香港遠征は、ほとんど期待されずに始まり、ほとんど注目もされないままに終わった。

 だが、このレースに大きな意味を見出した男がいた。鞍上の武豊騎手である。

 サイレンススズカは例によって逃げて、そして敗れた。ハイペースで飛ばし、直線半ば過ぎまで先頭でレースを引っ張り、見せ場を作ったものの、最後には世界の強豪たちに捕まった。勝ったのはヴァルズプリンスという馬で、2着には翌年の安田記念(Gl)で日本に遠征してタイキシャトルの2着に入ったオリエンタルエクスプレスの名前も見える。

 しかし、レースの後、武豊騎手は

「この馬は化け物だ」

と漏らした。「天才」と呼ばれた男は、この日の敗北からサイレンススズカに何を感じ取ったのだろうか。

 帰国後、武豊騎手は

「この馬は絶対に抑えないで行った方がいいと思います。もし今後乗せていただけるなら、そういう競馬をしたいです」

と橋田師に進言した。その進言は、同時に武豊騎手の「サイレンススズカに乗せてほしい」という意思表示でもあった。

 日本最高の騎手であり、どんな大レースであっても乗り馬にはまったく困らない武豊騎手が、4歳も終えようという時期に重賞未勝利の馬に自分の方から乗りたがる。見ようによってはあまりにも彼らの奇妙な出会いによって、新しい季節は始まろうとしていた。

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