スーパークリーク列伝~大河の流れはいつまでも~
『あれから時は流れて』
あれから長い時が過ぎ、その間に日本の競馬界も大きく変わった。日本の競馬界全体がどのように変わったかは、ここで改めて説明することを要しないだろう。ここでは、スーパークリークを取り巻く人や馬の変化についてのみ取りあげておきたい。
スーパークリークとともに19歳で菊花賞を勝ち、さらに天皇賞秋春連覇を達成した武騎手は、その後押しも押されぬ騎手界の第一人者としての評価を不動のものとしていった。通算勝利は既にJRA最多の4000勝を超え、Gl制覇も1988年菊花賞以降既に100勝を超え、日本ダービー5勝も達成している。
スーパークリークを管理していた伊藤修司師は、JRA史上5位(当時)の通算1223勝、27年連続重賞勝利などの輝かしい実績を残しつつ、2000年2月に調教師としての定年を迎え、競馬界を引退していった。
だが、変わったのはいい方向ばかりではない。スーパークリークの生まれ故郷だった柏台牧場は、跡を継ぐべき後継者に恵まれず、今は人手に渡って名前を変えている。スーパークリークの出生に深く関わった岡田繁幸氏も、夢見た日本ダービー制覇を果たすことなく、鬼籍に入った。
そして、時の流れが最も強烈に直撃したのは、スーパークリーク自身だった。
『夢の終わり』
天皇賞秋春連覇、菊花賞制覇。その輝かしい戦績とともに種牡馬入りし、引退当初は15億円というシンジケートが組まれたスーパークリークだったが、その評価は決してスーパークリークの種牡馬としての客観的な価値を示していたわけではなかった。馬を作れば売れて当然、シンジケートの株の価格も上がって当たり前。そんなバブル経済の影に踊った馬産界は、冷静な判断力を失って金色の夢に酔い、あまりに高すぎる15億円という値を付けてしまったというのが本当のところだった。実際には、スーパークリークの古色蒼然たるステイヤー血統は、スピード競馬の時代へと移ろいつつあった当時の馬産界の状況からしてみれば、決して価格ほどの評価を得られていたわけではなかった。
しかも、なお悪いことに、スーパークリークの初年度産駒がデビューするタイミングも最悪のものだった。15億円もの大金が投じられた以上、産駒は走って当たり前。そんな大きな期待を背負った初年度産駒にかけられた夢は、たった1頭の怪物種牡馬の前に完膚無きまでに叩き潰された。よりにもよって、産駒のデビューが日本競馬に破壊的な旋風を巻き起こしたサンデーサイレンスのそれと重なろうとは。
サンデーサイレンス産駒が無人の野を行くように3歳戦線、そしてクラシック戦線を荒らし回る中で、なかなか結果を残せないスーパークリーク産駒は、たちまち淘汰されていった。わずかに2年目の産駒のうち、オグリキャップの生まれ故郷である稲葉牧場が生産したハダシノメガミがスイートピーSで2着に入ってオークス(Gl)への出走権を確保した。しかし、そんな彼女もオークスではまったく通用せず、エアグルーヴの18着に敗れ去った。
バブル経済の崩壊を経験し、さらにサンデーサイレンスという圧倒的な現実を目の当たりにした馬産界が夢から醒めるのは早かった。しかも、スーパークリークの場合、シンジケートの代表者を務めていた牧場の経営が事実上破綻したことで、後見人を失うという悲運にまで見舞われた。産駒が走らない上に後見人まで失った種牡馬に有力牝馬を交配しようという馬産家はいない。スーパークリークのシンジケートはたちまち解散してしまい、その後は繁殖牝馬もほとんど集まらなくなった。
種付け依頼がほとんどなくなった後のスーパークリークは、牝馬の発情度合いを試す「アテ馬」との兼業名目で、かろうじて種牡馬生活を続行したようである。もっとも、「種牡馬スーパークリーク」は、68戦7勝の戦績を残して繁殖入りしたオギブルービーナスの子ブルーショットガンが2006年に阪急杯(Glll)を制した際にわずかに話題になった程度で、その後は話題に上ることすらなくなった。
そして、2010年8月29日、老衰によって死亡したという。同年は7月3日にオグリキャップも死亡しており、まるでライバルの後を追うかのようなタイミングでの訃報だった。
『滅びざる大河』
種牡馬としてのスーパークリークは、残念ながら失敗に終わってしまった。中央競馬での長距離戦の減少、ステイヤー適性が強調されすぎた血統構成、高すぎたシンジケート価格…。その原因をあげることはたやすい。
しかし、だからといってスーパークリークが歴史の中に残した足跡は、決して消えることがないだろう。それまで大衆の中のほんの一部にのみ注目されるギャンブルにすぎなかった競馬が、大衆の娯楽として広く認知されたことの背景として、「平成三強」が果たした役割は、極めて大きい。彼が「平成三強」として現在の競馬に残した財産は、間違いなく現在の競馬の基盤として息づいている。
生前のスーパークリークのもとには、晩年に至るまでも、遠方から彼を訪ねてくるファンがたくさんいたという。彼の走りに魅せられて、ついには日高まで訪ねてきたというファン一人一人の思いは、極めて熱いものがある。
「たとえ最初は小川でも、やがて大河となるように」
スーパークリークという競走名の由来は、そのように説明されていた。そんなスーパークリークは、残念ながら、種牡馬として大河になることができなかった。しかし、悠久の時を超えて生き続ける大河は、途中でたくさんの小川を呑み込み、それらをも己の一部としながら下流へと流れ続ける。それがない大河は、次第に細っていってついには「大河」どころか小川とさえ呼ばれない流れと化して、やがて消えてゆく。競馬の歴史も、それと同じである。
日本競馬の歴史を振り返った時に、スーパークリークという名馬は、どのように位置づけられるのだろうか。種牡馬として大河になれなかったことは間違いないスーパークリークだが、彼の存在が現在の競馬につながっている限り、その存在意義が失われることはない。スーパークリークによって魅せられた人々が、日本競馬という大河の中を流れ続けている限り、スーパークリークもまた大河の中で生き続けるのである。
スーパークリークによって魅せられた人々が、日本競馬という大河の中を流れ続けている限り、スーパークリークもまた大河の中で生き続ける。