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ニホンピロジュピタ列伝・未知に挑んだ馬

1995.5.3生。2000.5.9死亡。牡 鹿毛 橋爪松夫(浦河)産 目野哲也(栗東)厩舎
父オペラハウス 母ニホンピロクリア(母父プレイヴェストローマン)
21戦7勝(旧3-5歳時)。南部杯(統一Gl)、エルムS(Glll)優勝。

『未知に挑んだ馬』

 競馬を他の公営ギャンブルと最も大きく隔てる特徴は、その主人公であるサラブレッドたちが機械や道具ではない生物であり、それもランダムに生み出されるのではなく「血統」によってコントロールされた存在ということである。そうした特徴ゆえに、競馬は「ブラッド・スポーツ」とも呼ばれる。競馬の歴史は、馬産家たちが種牡馬と繁殖牝馬の短所を補い、長所を伸ばす次世代の産駒を送り出すために重ねてきた研究と実践、そして失敗と成功の繰り返しだったと言っても過言ではない。

 ただ、実際には、生まれてきた産駒たちが、父や母とは全く異なる特徴や傾向を示すことも、決して稀ではない。それもまた競馬、そして生命の深遠さである。

 1999年の南部杯マイルチャンピオンシップ(統一Gl)を制したニホンピロジュピタも、父は芝で実績を残し、母に至っては芝でしか走ったことがなかったことから、血統的に芝向きと思われており、デビュー後しばらくの間は芝のレースに使われ続けた。しかし、素質は示しながらも、満足するべき成果までは、どうしても残すことができない。

 そんな彼が活路を見出したのは、両親、そして自身の血統とは全く異なるダートの世界だった。新天地で実績を残した彼の活躍は、彼と似た血統の馬たちを見る目を変えるほどのものだった。・・・だが、他の馬たちの馬生に新しい可能性をもたらした彼自身の馬生は、誰にも予期できない悲劇によって彩られることになったのである。

『一族の夢』

 1995年5月3日、ニホンピロジュピタは、浦河の橋爪松夫氏が経営する牧場で生を享けた。血統は、父がオペラハウス、母がニホンピロクリアというものだった。

 ニホンピロクリアの通算戦績はJRAで10戦3勝、主な勝ち鞍は中京3歳S(OP)で、重賞での実績は小倉3歳S(Glll)3着が最高・・・というものだが、繁殖牝馬としては、CBC賞(Gll)、マイラーズC(Gll)など38戦8勝の実績を残したニホンピロプリンス(父ニホンピロウイナー)、数字だけなら7戦1勝ながら、新馬戦を勝ち上がった後の函館3歳S(Glll)で3着に入ったニホンピロプレイズらを輩出している。

 また、ニホンピロクリアが属する牝系は、小岩井農場が1907年に輸入した20頭の基礎牝馬の中でも特に著名な1頭であるアストニシメントに遡る。彼女の系統からは、メジロ牧場の主流血統となったアサマユリの系統から2頭でGl6勝を挙げたメジロデュレン、メジロマックイーン兄弟が出ている。また、ニホンピロジュピタ以降も天皇賞・秋を制したオフサイドトラップや川崎記念馬インテリパワー、21世紀に入ってからはトロットスター、ショウナンカンプ、リージェントブラフなど多くのGl馬を輩出しており、現在まで一定の影響力を保持する名門牝系である。

 そんな一族に属し、既に繁殖牝馬として実績を残していたニホンピロクリアだけに、彼女に寄せられた血統的な期待は大きかった。血統的な評価が微妙だったと言えば、むしろ母ではなく、父であるオペラハウスの方だったかもしれない。

『父の血』

 現役時代に英国馬として走ったオペラハウスは、5歳時にコロネーションC、エクリプスS、キングジョージとGl3連勝を飾り、凱旋門賞でもアーバンシーの3着に入っている。この競走成績は、当時日本に輸入されていた欧州の種牡馬の中でも、十分に立派なものだった。問題は、彼の実績よりも血統である。

 オペラハウスの父は、1981年生まれで愛2000ギニーなどを制したSadler’s Wellsである。Sadler’s Wellsといえば、1990年に初めて英愛リーディングサイヤーに輝くと、1年置いた92年から2004年まで13年連続でこの地位を保持し続けて欧州を席捲し、現代では「世界的大種牡馬」という評価が確立している。そんな血統の何が問題だというのか?

 答えは簡単で、話をこと日本に限るならば、Sadler’s Wellsの産駒は、とにかく走っていなかった。彼の子だけでなく、日本で種牡馬として供用された彼の産駒も実績をあげておらず、オペラハウスより2歳年長で仏愛ダービーを制したオールドヴィックも、2年間日本でリースされたものの、さしたる実績馬を残していない。

「Sadler’s Wellsの血は、日本の馬場とは合わない・・・」

 いつしか、それが日本競馬界における定説となっていた。オペラハウスが後に「世紀末覇王」テイエムオペラオーや、Gl4勝を挙げたメイショウサムソンを産駒として輩出したことを知る後世の感覚からはズレが生じるが、当時そうした雰囲気が日本競馬を支配していたことは、厳然たる事実である。

『ニホンピロ軍団』

 オペラハウスとニホンピロクリアの間に生まれた鹿毛の牡馬は、やがて「ニホンピロジュピタ」と名付けられた。「ジュピタ」とは、太陽系の惑星である「木星」(Jupiter)のことだが、木星という惑星自体、「拡大と発展」という意味も持っているという。

 そんな縁起の良い馬名を与えられたニホンピロジュピタは、「ニホンピロ軍団」を多く手掛ける目野哲也厩舎に入厩することになった。…というより、初子のニホンピロプリンス以降、ニホンピロクリアの子はすべて「ニホンピロ軍団」の一員として目野厩舎でデビューしている。ニホンピロジュピタにとっては、誕生の瞬間から既にそこまでの道が運命づけられていた・・・という方が、正確であろう。

 だからといって、ニホンピロジュピタがそこまで大きな期待を集めていたわけでもない。橋爪氏によれば、ニホンピロクリアの産駒たちは、ニホンピロプリンス、ニホンピロプレイズといった活躍馬も含めて、育成時代には目立った動きをしない馬ばかりだったという。そして、その点についてはニホンピロジュピタも同じだった。

 彼が変わってきたのは、牧場から育成場へと移った後のことで、育成場のスタッフから

「いい動きをしている」

と連絡をくれるようになるまで、橋爪氏はニホンピロジュピタのことを期待馬として特に意識してはいなかったという。

 だが、一族の特徴を熟知した目野師の管理下に入った後、ニホンピロジュピタの仕上がりは早かった。96年に半兄ニホンピロプリンスとのコンビで自身にとって唯一の重賞制覇となるマイラーズC(Gll)を制した小林徹弥騎手を鞍上に、3歳8月の札幌新馬戦でデビューを果たしたのである。

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