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ニホンピロジュピタ列伝・未知に挑んだ馬

『ブロンズ・コレクターの宿命』

 オーロラ特別を勝ったことで勢いに乗るニホンピロジュピタの次走は、初めてのダート重賞となるエルムS(Glll)とされた。

 900万下特別を勝ったばかりのニホンピロジュピタは、まだ自己条件では準オープン馬にすぎず、オーロラ特別からエルムSというローテーションも中1週と厳しいものだった。しかし、目野師の眼は、この年のエルムがは登録馬が少ないため、フルゲートとなる可能性は低く、出走が可能な情勢という点に注がれている。

 とはいえ、エルムSの出走馬を見ると、前年の覇者でダート重賞3勝、統一Glでも南部杯と帝王賞で2着の実績馬バトルライン、前年の南部杯(統一Gl)の覇者タイキシャーロックという、当時のダート界のまぎれもなきトップホースたちの名前があった。決して楽な相手ではない。

 それでも、ニホンピロジュピタの実力を信じる目野師らにとって、彼にふさわしい舞台は自己条件の準OPなどではなく、バトルラインやタイキシャーロックといった実績馬としのぎを削ることができる重賞だった。目野師には、強い相手との競馬を経験させることによって、ファンにその実力をアピールするとともに、馬にもさらなる覚醒を促すという狙いもあった。

 ふたを開けてみると、エルムSの出走馬に名を連ねたニホンピロジュピタは、格上挑戦ではあっても「上昇著しい」「夏の上がり馬」としてなかなかの人気を集め、上位2頭に次ぐ単勝490円の3番人気に支持された。

 そして、勝ったタイキシャーロックからは0秒5差離されたものの、ニホンピロジュピタも人気通りの3着に食い込んで、ダートならば重賞級でも通用する実力を見せつけた。

 とはいえ、重賞で本賞金を上積みできるのは、2着以内のみである。重賞での3着は、健闘と評価されても、本賞金の加算につながらない。・・・たとえどんな実績馬が相手でも、である。

 札幌3歳S、デイリー杯3歳S、そしてエルムS…彼がこれまで重賞で好走したのは、いずれも3着までであり、本賞金の上では単なる3勝馬に過ぎない。こうしてエルムS後も準オープン級にとどまったニホンピロジュピタは、その後も苦難の道を歩むことになる。

『高い、高い壁』

 その後、ダート重賞の中では世代限定戦のために出走しやすいはずだったユニコーンS(Glll)に登録したニホンピロジュピタだが、出走可能になった後に右前踏創を発症してしまい、出走取消となってしまった。こうなると、準オープンに過ぎないニホンピロジュピタは、それ以降で世代限定ではなくなるJRA重賞も、JRA出走枠が限られる交流重賞も、本賞金が足りないために出席すら難しいという現実に突き当たらざるを得ない。

 ニホンピロジュピタは、ここでようやく自己条件となる準オープンのレースに出走せざるを得なくなったが、ここでは結果が出なかった。・・・いや、そう言い切っていいかどうかは微妙だが、望む結果は出なかった。

 フェアウルS(1600万下)、2番人気2着。雅S(1600万下)、1番人気2着。テレビ山梨杯(1600万下)、1番人気2着。北山S(1600万下)、1番人気3着。

 98年12月下旬から99年2月下旬までの約2か月間で4つの準オープンに出走したニホンピロジュピタの厳しいローテーションは、1勝をあげてオープン級に上がりさえすれば、実力相応のレースを選べるようになるという、目野師らの祈りにも似た意図が強く感じられる。しかし、優勝が必要な準オープンなのに、どうしても勝てない。凡走することはなく、勝ち馬との着差もわずかなため、レースを重ねるたびに人気は上がっていく。それでも、最後の結果だけがついてこない。

 そして、しばらくの休養を挟んだ復帰戦となる大沼S(1600万下)で、

「馬がよくなっていた」

という目野師の手応えにも関わらず、6着に沈んだ。・・・この敗北によって降級となり、ニホンピロジュピタは900万下からの再出発を強いられることになってしまった。

 降級初戦となった津軽海峡特別(900万下特別)では、さすがに勝ち切った。とはいえ、それまでのニホンピロジュピタは、準オープン5連敗である。

「900万下では勝てても、準OPでは一歩足りない馬」

というのが、この時点での彼に対する偽らざる評価に思われた。

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