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スクラムダイナ列伝~夢の途中~

 1982年3月21日生。牡。鹿毛。社台ファーム(白老)産。
 父ディクタス、母シャダイギャラント(母父ボールドアンドエイブル)。矢野進厩舎(美浦)。
 通算成績は、6戦3勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、朝日杯3歳S(Gl)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『ダービーを勝つということ』

 日本ダービーを勝った競馬関係者のインタビューを聞いていると、よく

「ダービーを勝つことが夢だった」

というコメントが出てくる。「日本ダービーこそが日本最高のレースである」という認識は、日本競馬における多くのホースマンたちが共有するものであり、それゆえに、ダービーを勝つことが、多くのホースマンたちの夢、そして人生の目標となってきた。

 しかし、その反面で、新世代のホースマンたちの間には、日本ダービーを必ずしも特別視しない風潮が生まれてきていることも確かである。「ダービーといえども数あるGlのひとつである」と考え、「馬に最も合った条件、距離のレース」を選ぶ際に、もし条件が合わないと判断すれば、それがダービーであってもすっぱりとあきらめる・・・。近年増えてきたそんな選択の背景には、番組の多様化、特に短距離やダート路線の選択肢の増加という要素がある。

 もっとも、ダービーを勝つことを生涯の夢とし、その目的のためならすべてを賭けて当然と考えてきた古いタイプのホースマンたちにしてみれば、そのような傾向は、かなり理解しづらいものかもしれない。

 かつての日本競馬界に、日本ダービーを勝つことに命を賭けた男がいた。独立した際は日本のどこにでもある小牧場のひとつだった自分の牧場を、自分一代で日本最大の牧場へと育て上げた彼だが、父から受け継いだ夢である日本ダービーの制覇はかなえることができないまま、人生の晩年を迎えていた。幾度もの失敗の向こう側に、必ず成功がある。そう信じて戦い抜いた男は、繰り返された数々の挫折の後に、ただ一度の栄光をつかむこととなる。

 彼の戦いの記録は、いまや日本競馬の歴史とともに歩んだ日本ダービーの歴史の1ページとなった。サラブレッド列伝では、そんな男の夢を託された馬たちの挫折と栄光を語ることで、男たち戦いの歴史を現在へと継承してみたい。今回は、まずは男の夢と野望を託されながら、時に利あらず挫折したスクラムダイナの物語である。

『故郷と一族の源流』

 1982年3月21日、スクラムダイナは、日本最大の牧場である社台ファームの分場のひとつ、白老社台ファームで生まれた。

 スクラムダイナの血統は、父ディクタス、母シャダイギャラント、母父ボールドアンドエイブルというもので、ガーサントからノーザンテーストへと続いた社台ファームの種牡馬の王道から一歩はずれたものだった。

 社台ファームの歴史を語る際、牧場の基礎を築いた種牡馬が1961年に輸入されたガーサントであり、日本一の牧場としての地位を不動のものとした種牡馬が76年に供用を開始したノーザンテーストであるということは、もはや争いようのない歴史的事実である。だが、社台ファームは、その間の時期にも多くの種牡馬、繁殖牝馬を導入したり、新しい用地を購入したりすることによって、牧場の拡張を図っていた。

 種牡馬ガーサントの成功は、社台ファームに安定した種付け料収入と優れた繁殖牝馬をもたらし、その経営基盤は大幅に強化された。だが、社台ファームの総帥である吉田善哉氏が選んだのは、ガーサントによって築かれた経営基盤に基づく安定を目指すのではなく、そこを足がかりとして、牧場をさらに拡大していく道だった。

 しかし、巨額の投資はすぐには成果につながらず、社台ファームの借金は、大きく膨れ上がった。そのため善哉氏の周辺からは、常に

「牧場が潰れるんじゃないか」

と危惧する声があがり、中には善哉氏の拡大路線をいさめる者もいたが、善哉氏はそうした声には一切耳を傾けなかった。

 スクラムダイナの牝系は、善哉氏が押し進めた、見る人によっては無謀に近いともいわれた拡大路線の中から社台ファームに根付いた血統だった。スクラムダイナの母方の祖父にあたるボールドアンドエイブル、母方の祖母にあたるギャラントノラリーンは、いずれも「ガーサント以降、ノーザンテースト以前」の時代に社台ファームに導入された血統である。

『血のルーツ』

 ボールドアンドエイブルは、この時期に社台ファームが導入し、「失敗続き」とされた種牡馬の中では、比較的ましな成績を収めたとされているが、1980年に13歳の若さで早世したため、投資に見合う収益を牧場にもたらすことはなかった。繁殖牝馬ギャラントノラリーンの系統からも活躍馬は少なく、スクラムダイナ以外だと、03年東京ダービー、04年かしわ記念(統一Gll)などを制したナイキアディライトが出た程度である。

 だが、目立った成績をあげてはいなくとも、堅実な成績で牧場に利益をもたらす血統もある。シャダイギャラントは、競走馬として2勝を挙げ、さらに繁殖入りしてからはダイナギャラント、ダイナスキッパーという2頭の牝馬の産駒がそれぞれ4勝、3勝を挙げたことで、派手さはなくとも堅実な繁殖牝馬であるという評価を得ていた。

 ただ、シャダイギャラントとの間でダイナギャラント、ダイナスキッパーをもうけた種牡馬のエルセンタウロは、1981年に死亡してしまった。そのため社台ファームは、シャダイギャラントの能力を引き出すための、エルセンタウロに代わる交配相手を探す必要に迫られた。1頭の種牡馬と1年間に交配可能な頭数が、今よりもずっと限られていた当時、シャダイギャラント級の繁殖牝馬に社台ファームの誇る名種牡馬ノーザンテーストをつける余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、社台ファームによって輸入されたばかりの新種牡馬ディクタスだった。

 ディクタスは、現役時代に欧州ベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞優勝をはじめとする17戦6勝の戦績を残し、種牡馬としても、フランスで供用された際に、サイヤーランキング2位に入るという素晴らしい結果を残している。

 社台ファームは、ノーザンテーストの成功が見えてきた後も

「ノーザンテーストだけでは二代、三代先に残る馬産はできない」

ということで、新しい種牡馬の導入を続けてきた。新しく連れてきたディクタスの種牡馬としての可能性を見極めるために、堅実だが華やかさに欠けるシャダイギャラントとの交配はうってつけだった。

『社台の暴れん坊』

 ところで、シャダイギャラントとディクタスは、ともにかなりの気性難として知られていた。ディクタスはもともとステイヤー血統の馬だったにもかかわらず、気性がきつすぎて中長距離戦は距離が持たず、マイル路線に転向して成功したというのは有名な話である。シャダイギャラントも、実際の戦績は2勝だが、気性さえまともならばもういくつかは勝ち星を上積みできていただろう、というのが牧場の人々の共通認識だった。

 そんな両親から生まれたスクラムダイナは、父と母の気性を受け継いで、幼駒時代から非常に気が強かった。同期の馬たちはたちまち子分として従えるようになり、ボスとしての権力と権勢をふるっていた。また、人間に対しても気に食わないことはとことん反抗するため、牧場の人々からはスクラムダイナに手を焼き、「暴れん坊」と呼んで恐れていたという。

 スクラムダイナは、生まれてしばらくした後、社台ファームが新たに購入した土地で「空港牧場」をオープンさせるに伴い、その新設牧場に移された。牧場の主流をやや外れた血統、「空港牧場第1期生」にあたるその出生時期・・・様々な面から、スクラムダイナは社台ファームの拡大路線の申し子とも言うべき存在だった。 

 もっとも、激しすぎる気性を除けば、スクラムダイナは将来を嘱望された期待馬だった。牧場の人々は、早くからスクラムダイナの馬体について、「トモの下がやや寂しいこと以外はほぼ完璧な馬体である」として期待していた。また、スクラムダイナが生まれて間もなく社台ファームにやってきた矢野進調教師も、この馬を一目見てその素質の素晴らしさを認め、

「これ、くれよ」

と場長に申し出た。

 矢野師は、当時社台ファームが1980年に始めた共有馬主クラブ「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の主戦調教師的な地位を占めていた。また、矢野師の実績はそれだけでなく、1977年から79年にかけて、バローネターフで3年連続最優秀障害馬を勝ったこともある。ちなみに、矢野師と障害の縁をたどると、矢野師の父親である矢野幸夫調教師は、1932年ロス五輪の馬術競技で金メダルを獲得した「バロン」こと西竹一氏の弟子の1人という話である。

 スクラムダイナも「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の所有馬として走ることになったため、矢野厩舎に入ることへの支障はなかった。こうしてスクラムダイナは、美浦の矢野厩舎からデビューすることに決まった。

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