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スクラムダイナ列伝~夢の途中~

『執念の眼光』

 日本ダービー当日、単勝1番人気に支持されたのはシリウスシンボリだった。もっとも、単勝オッズが410円というのは、歴代のダービー1番人気馬たちの中でも、かなり高い部類に入る。「シリウスシンボリ騒動」に巻き込まれ、さらにトライアルとして使う予定だったNHK杯(Gll)も体調が整わず使えなかった本命馬への評価に、ファンも迷いを捨てることができなかった。

 そんなシリウスシンボリに続いたのは、弥生賞馬スダホーク、そしてサクラサニーオーだった。・・・スクラムダイナは3歳王者、皐月賞2着馬、そして連対率100%の戦績を残していながら、930円の4番人気にとどまった。スクラムダイナという馬自身、デビューからダービー当日まで、一種の影の薄さがつきまとった印象は否めない。

 だが、この日のスクラムダイナの状態について、ある意味で異様な雰囲気を漂わせている・・・と見た人は多かった。パドックでの彼には、悲壮感が歩様にあふれ、眼光だけが鋭く輝いていたという。それをもって

「スクラムはダメだ」

と言う人もいれば、

「いや、あれこそが勝負に賭ける男の面目だ」

と言った人もいた。さらに競馬サークル内では、

「吉田善哉のダービーへの気迫がのり移ってるんだよ・・・」

というような評までなされた。

『風雲ダービー』

 ところで、この年のダービー・ウィークの東京は、長雨にたたられていた。雨自体はレース当日までには上がったものの、土曜日もレースに使われた影響で、馬場状態がかなり悪化していた。主催者の発表によれば馬場状態は「重」だったが、実際の走りにくさは「不良」以上だったというのが本当のところである。果たして、この極悪馬場が戦いにどのような影響を与えるのか。それは神のみぞ知ることだった。

 今でこそフルゲートが18頭に制限された日本ダービーだが、それ以前は20頭を超える多頭数が当たり前だった。この時も26頭の一斉スタートで、ばらついたスタートに見えた。

 そんなレースを先導したのは、NHK杯(Gll)を勝っている中島啓之騎手とトウショウサミットのコンビだった。1週間前のオークスでも2着に入った中島騎手は、この年26勝を挙げて、その時点での関東リーディング4位の成績を残していた。42歳のベテラン騎手は、ダービーを前に特にその騎乗が冴え渡り、鬼気迫る気迫に周囲は絶好調と噂していた。

 ・・・だが、そんな騎乗には理由があった。この時中島騎手は、この年の、そしてこの日のダービーが、自分にとって「最後のダービー」となることを知っていた。中島騎手は肝臓癌を宣告され、既に余命いくばくもない状況だったのである。

 中島騎手を診察した医師は、

「早く入院しないとたいへんなことになる」

と中島騎手に早期入院を強く勧めた。しかし、自らの死期を悟ったのか、中島騎手は

「今年のダービーだけは乗せてくれ」

と頼み込み、騎乗を強行していた。そんな状態で最後のダービーに臨んだ中島騎手は、そのわずか16日後、病のため帰らぬ人となり、ダービーの夢に殉じた悲しいホースマンの1人となっている。

『奇妙な光景』

 そんなトウショウサミットの執念の逃げで始まったレースは、やがて例年とはまったく異なる奇妙な様相を呈し始めた。向こう正面あたりでは、馬群は縦長の列となっていたが、彼らの位置取りは、少数の例外を除き、みな馬場の真ん中あたりに集中していたのである。少しでも内をついて距離を稼ごうとする普段の競馬に慣れた目から見れば、この日の馬たちの位置取りは、奇異にすら映るが、これは内ラチ沿いの馬場状態がいかに悪かったかを意味するものだった。

 だが、縦長の競馬はいつまでも続かない。この日の馬場状態でいつまでも後ろにいたのでは、直線に入ってからの仕掛けだと前にはとても届かない。果たして、馬たちのほとんどは、第3コーナー手前あたりで動き始めた。

 彼らは、少しでもいい馬場を求め、次々と馬群のさらに外へと持ち出していった。距離を稼ぐために内を衝く者は、驚くほどにいない。この日の「内」とは「馬場の真ん中」であり、「外」とは「外ラチ沿い」のことだった。そして、「馬群の外」を衝いた馬たちの中にはシリウスシンボリ、そしてスクラムダイナも含まれていた。

『運命の時』

 スクラムダイナはこの日、中団から競馬を進めた。22番枠スタートのスクラムダイナは、前にシリウスシンボリを見ながら、その気になればいつでも外に持ち出せる場所につけていた。

 だが、第4コーナーに入り、馬群が馬場の真ん中から外ラチ沿いまで大きく広がった時、スクラムダイナは他の馬たちに置いていかれて他の馬たちの先行を許してしまった。スクラムダイナは、大外を回ったことで、またも仕掛けがワンテンポ遅れてしまったのである。

 そうしている間に、内の方では重馬場巧者のスダホークが馬群の内を器用にするすると上がっていくと、26頭の先頭に立った。・・・スダホークの動きによってレースは動き、中島騎手の命を賭けた夢は、馬群の中へと飲み込まれていった。

 馬群を抜け出したスダホークのすぐ外からは、シリウスシンボリがぴったりとついてきていた。・・・というより、加藤騎手は完全にスダホークの動きを見ながら仕掛けていた。いつ仕掛ければスダホークを差せるか。そんな観点から動く時期を選んだシリウスシンボリは、やがてスダホークを完全にとらえ、馬群を引き離した。そんな攻防が繰り広げられている間、仕掛けが遅れたスクラムダイナは、まだ馬群の中に置かれていた。

『夢破れて』

 シリウスシンボリがスダホークを競り落としたころ、スクラムダイナはようやく進出を開始した。大外も大外、外ラチ沿いからの追い込みである。スクラムダイナは、持ち前の瞬発力で、先に抜け出していたスダホークとの差を縮めていった。・・・だが、シリウスシンボリに競り落とされたはずのスダホークは、スクラムダイナに並ばれてから、もう一度最後の力を振り絞って抵抗してきた。スクラムダイナは、結局スダホークをもかわしきれないまま、2頭並んだ形でゴールした。・・・彼らの3馬身先には、完全に抜け出したシリウスシンボリの姿があった。

 シリウスシンボリは言うに及ばず、スダホークとの写真判定にも敗れたスクラムダイナは、結局3着に敗れてしまった。スクラムダイナの敗因は、大外からの競馬しかできず、仕掛けどころを柔軟に選ぶことができなかった、彼の不器用さにあった。

 シリウスシンボリのダービー制覇により、和田氏とシンボリ牧場は、2年連続3度目の日本ダービー制覇を果たした。名門オーナーブリーダーから歓喜の声があがった一方で、生産規模ではその10倍近かった社台ファームは、またも一敗地にまみれた。スクラムダイナ3着、サクラサニーオー4着という結果を見届けた善哉氏は、レース終了後早々に席を立ち、人々の前から姿を消したという。

 しかも、悪いことは重なるものである。レースの後、スクラムダイナは脚を痛がる素振りを見せ、診察の結果、右第3中手骨の骨折が判明した。最悪の馬場状態の中で2400mを疾走した脚への負担が、彼のガラスの脚を破壊したのだろうか。「予後不良」「殺処分」・・・そんな言葉さえ飛び交う緊迫した情勢の中、スクラムダイナの脚にボルトを埋め込む手術が行われることになった。

 結局、手術は成功に終わったものの、スクラムダイナがその後レースに復帰することはなかった。6戦3勝、2着2回、3着1回。数字を見ればほぼ完璧に思える成績を残したが、実際には数字ほどの存在感を示すことができなかったスクラムダイナは、日本ダービーを最後にターフを去ることとなった。社台ファームと吉田善哉氏の野望と悲願を背負って走ったスクラムダイナだったが、彼が託されたものを実現することはできず、社台ファームの悲願が成るまでには、あと1年の時が必要だった。

『それからの旅路』

 競走生活を引退した後は種牡馬となったスクラムダイナだったが、その種牡馬としての実績は薄い。1986年に種牡馬生活を始め、その3年後には初年度産駒をデビューさせたスクラムダイナだったが、重賞を勝つような子は現れることがないまま、わずか7年間の供用のみで種牡馬を引退した。スクラムダイナの代表産駒といえば、中央競馬で3勝を挙げたケニーキーラーであるとされている。

 1992年11月25日に種牡馬登録を抹消されたスクラムダイナのその後の消息は、知れない。かつて無敗の3歳王者としてダービーを夢見た血は、早い時期に競馬の表舞台から消え、そして孫の代を最後に、競馬界から完全に断絶したものとみられる。善哉氏の生涯のハイライトとして語られるダイナガリバーとは対照的に、スクラムダイナが特別な存在として取り上げられることは、ほぼない。

 ちなみに、スクラムダイナにダービー制覇の夢を託した吉田善哉氏は、スクラムダイナが敗れた翌年にあたる1986年、ついにダイナガリバーで日本ダービー制覇を果たした。だが、ダービーを勝ったことで善哉氏の夢が終わったわけではなかった。その後も善哉氏は、

「ダービーは何度勝ってもいい」

と称して精力的に社台ファームの拡大に努めた。ノーザンテーストの後継としてリアルシャダイ、トニービン、そしてサンデーサイレンスの導入に成功した善哉氏の馬への意欲に、衰えはないように見えた。

 だが、その善哉氏も、体力の衰えには勝てなかった。スクラムダイナが行方不明になった92年ころから人前に姿を見せることもめっきりと少なくなった善哉氏は、そして翌93年8月12日、競馬界の巨人として歩んだ生涯を閉じたのである。72歳ながら馬への思い燃え盛る、いまだ夢の途中での死だった。

 善哉氏の死後、社台ファームの生産馬は、善哉氏が初年度産駒のデビューを見ることのなかったサンデーサイレンスの産駒を中心として、ダービーをはじめとするクラシック、Glを勝ちまくっている。タヤスツヨシ、スペシャルウィーク、アドマイヤベガ、アグネスフライト、ネオユニヴァース、ディープインパクトという6頭のダービー馬を輩出し、日本競馬界の地図を完全に塗り替えたのは、善哉氏が死の直前に輸入したサンデーサイレンスであり、そのサンデーサイレンスを超える7頭の日本ダービー馬を輩出したのは、その子であるディープインパクトだった。サンデーサイレンス系のダービーでの強さは、まるで日本一の大牧場を築きあげながら生涯一度しかダービーを勝てなかった善哉氏の執念・・・あるいは怨念を表すかのようだったが、その大種牡馬たちも今は亡い。競馬界の歴史は、新たなドラマを生みながら、いまなお明日へ向かって歩み続ける。

 だが、どんなに歴史が新しくなっても、歴史を築いた人々の思いを忘れ去ってはならない。日本ダービーがすべてのホースマンの憧れだったこと、社台ファームを築きあげた巨人が生涯欲し続け、そうでありながら一度しかたどりつけなかった夢のレースだったということは、日本競馬を語るうえで決して忘れてはならない事実なのである。私たちは、そのことを肝に銘じるとともに、歴史の勝者のみならず、ダービーの栄光、そして人々の夢に殉じて消えていったスクラムダイナのような馬のことも、せめて記憶の片隅にでもとどめておかなければならない。

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