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スクラムダイナ列伝~夢の途中~

『スクラムダイナの悲劇』

 トライアルの結果を受け、皐月賞戦線に対する一般的な予想は、ミホシンザンを予想の中心にすえるようになった。その一方で、サザンフィーバーの悲劇もあり、スプリングS組のうち勝ち馬ミホシンザン以外の馬たち、特にスクラムダイナへの評価は、大きく低下してしまった。皐月賞でのスクラムダイナの人気は単勝650円の4番人気まで落ち、1番人気で290円のミホシンザンはいうに及ばず、スプリングSまでは軽視されていた弥生賞組のサクラサニーオー、スダホークにも遅れをとるに至った。

 皐月賞は22頭という多頭数でのレースであることから、スクラムダイナに騎乗する岡部騎手にとっても、難しい手綱さばきが強いられることは明らかだった。もともと馬ごみが嫌いなスクラムダイナは、それまで可能な限り周囲に馬を置かずに競馬をしてきた。だが、これだけ頭数が増えてしまうと、周囲に馬を置かない競馬は難しい。また、それができたとしても、外を回る場合の距離的な不利は、少頭数の場合よりもずっと大きい。

 望むと望まざるとは別として、前走では馬ごみの中での競馬を経験したスクラムダイナだったが、その結果は、馬の心に恐怖を与えかねない転倒事故に巻き込まれてしまった。2着に入りはしたものの、馬の心の傷はまったく別の話で、同じような競馬をした時に、馬に恐怖が蘇る可能性は十分ある。

 岡部騎手は、馬の将来と他の馬や騎手、そして自分自身の安全のために、外を回りながら瞬発力勝負に賭けるしかなかった。スクラムダイナと岡部騎手の悲劇は、朝日杯3歳Sのような競馬をするよりほかに、選択肢がなかったことである。そのような競馬をしたとしても、多頭数、相手関係の両面から、朝日杯3歳Sと同じ結果・・・勝利を得ることがはるかに難しいことを知っていながら、彼らは勝つための方策をそれ以外には持っていなかった。

『5馬身差の敗北』

 この日も中団で競馬をしたスクラムダイナだったが、今度は常に外に持ち出すための進路をなくさないよう、周囲に気を配りながらのレースとなった。21頭に囲まれての競馬は、不器用なスクラムダイナにとっては、一歩間違えるだけでも致命傷につながる。

 それでも、岡部騎手の細心の競馬のかいあって、スクラムダイナは馬の壁に閉じ込められることもなく、第4コーナーに達した。だが、外を回ることで生じる距離の無駄は、大外強襲の際には常につきまとう。一時は好位に上がっていったかに見えたスクラムダイナは、第4コーナーから直線の入り口にかけて外に振られた際に、またも後方に置かれてしまった。

 スクラムダイナが体勢を立て直している間に内から早々に抜け出したのは、柴田騎手に導かれたミホシンザンだった。器用な脚を使って好位をキープし、第4コーナーでいち早く先頭に立ったミホシンザンは、あっという間に馬群を抜け出し、そのまま独走態勢を築いていった。

 スクラムダイナもその後、再び末脚を爆発させて大外から飛んできた。だが、他の馬たちとの差はみるみる縮まっても、肝心のミホシンザンとの差は縮まらない。彼が仕掛けるより前に、ミホシンザンとの間には永遠の差がついてしまっていた。

 ゴールの時、スクラムダイナとミホシンザンとの着差は、実に5馬身差がついていた。・・・この日スクラムダイナがミホシンザンにつけられた着差の意味は、岡部騎手がよく知っていた。レース後に敗戦の弁を求められた岡部騎手は、

「政人が勝つ馬を選んだだけのことさ・・・」

と漏らしている。将来性も含めて馬を選んだ柴田騎手と、その柴田騎手の見立てどおりに順調に成長したミホシンザンが勝った、ただそれだけのことだった。そんな才能の差を別のもので補うには、スクラムダイナはあまりにも不器用すぎた。彼らの決着は、柴田騎手がミホシンザンを選んだときに、既についていたのかもしれない。

『流転のターフ』

 ミホシンザンの5馬身差の圧勝を受けて、日本ダービーに向けた人々の予想は、ミホシンザン一色となった。もともと優勢が予想されていたミホシンザンだったが、皐月賞での勝利の内容の濃さは、人々の予想を遥かに超えたものだった。その光景を目の当たりにした競馬界からは、ミスターシービー、シンボリルドルフに続く3年連続の三冠馬の誕生を確実視する声も出始めるほどだった。

 一方スクラムダイナには、4歳に入ってから2戦続けてミホシンザンに敗れたという事実が重くのしかかってきた。もともとスクラムダイナは血統、そして胴の詰まった馬体から、距離が延びた時の対応に疑問がもたれていた。ミホシンザンの方が距離が延びてからの馬と見られていたのとは対照的である。

 ところが、そのスクラムダイナがミホシンザンに、1800mのスプリングS、2000mの皐月賞で相次いで敗れた。それも、皐月賞は5馬身差での敗北である。この事実からは、

「スクラムダイナは、もうミホシンザンには勝てないんじゃないか・・・」

 そんな声も公然とあがるようになっていた。人々は、これから起こる運命のさらなる流転をまだ知らなかった。

 ・・・皐月賞の4日後、ミホシンザンに皐月賞のレース中の骨折が判明したというニュースが流れ、競馬界に衝撃が走った。柴田騎手のダービー制覇と三冠の夢は戦わずして潰え、後に本命不在の戦国ダービーの予感だけが残ることになろうとは、誰も想像し得ないことだった。

『立ちはだかるもの』

 単純に考えれば、皐月賞馬が戦線を離脱した後、最もダービーに近い位置にいるのは皐月賞2着馬のスクラムダイナである。

 ちなみに、この年の日本ダービーにおける社台ファームの生産馬は、スクラムダイナのほかに、サクラサニーオー、アクティブダイナの3頭出しとなった。彼らの調子は良く、スクラムダイナとサクラサニーオーの調教を見届けた善哉氏は、社台ファームに残っていた息子の照哉氏と勝己氏に、

「大丈夫だ、絶好だぞ。(従業員を)みんな連れてこい」

と命じたほどだった。皐月賞馬不在のダービーで、皐月賞2着馬、3着馬を送り込む善哉氏に、ダービーへの希望と期待は、かつてないほどに高まっていたに違いない。

 しかし、その反面で一般のファンの見方はどうかというと、スクラムダイナへの期待は、さほど高くはなかった。未知の距離への不安もさることながら、何よりも皐月賞でミホシンザンにつけられた5馬身の着差が、彼から「ダービーの本命」と呼ばれる資格を奪っていた。

 ファンがミホシンザンに代わるダービーの本命に推したのは、皐月賞不出走のシリウスシンボリだった。シリウスシンボリは、その冠名が示すとおり、前年のシンボリルドルフに続くダービー連覇を目指すシンボリ牧場の和田共弘氏の生産馬であり、所有馬でもある。シリウスシンボリは、一線級との対決こそないものの、5戦3勝2着1回、1着入線失格1回という戦績を残しており、皐月賞組にはない魅力を持っていた。

 シリウスシンボリには、所属する二本柳俊夫厩舎、加藤和宏騎手と、オーナーであるシンボリ牧場、和田氏との確執が伝えられていた。和田氏の、主戦騎手加藤和宏騎手の騎乗への強い不満と乗り替わりの要求、それに対する二本柳師の反発・・・。彼らの対立は、それぞれダービーを勝ちたいがゆえの対立ではあったが、その目標の重みゆえに、抜き差しならないものへと発展していった。シリウスシンボリが皐月賞を回避した理由は、表向きは「脚部不安」とされていたものの、その背景に、当事者だけでなくやがて厩務員会、調教師会まで巻き込む大騒動に発展した「シリウスシンボリ騒動」の影響があったことは、競馬界の誰もが知る公然の事実だった。だが、「シリウスシンボリ騒動」は、加藤騎手の騎乗でダービーに向かうという形で一応の結論が出た。彼らのダービーへの態勢も、ようやく整いつつあった。

 日本ダービー。その重みゆえに馬たちは、人々は力の限り戦う。スクラムダイナもその1頭であり、彼をこの世へと送り出した吉田善哉氏も、その1人だった。同じ1982年に生まれたサラブレッド、そして日本で競馬に関わるすべてのホースマンたちの頂点に立つために、彼らは戦いの舞台へと向かっていった。そんな彼らの前に立ちはだかるのもまた、彼らとは決して相容れぬ、同じ志を持つ者たちだった。

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