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マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~

1997年3月14日。牡。鹿毛。稲葉隆一(美浦)厩舎。高松牧場(浦河)。
父コマンダーインチーフ 母プリンセススマイル(母父ノーザンテースト)
29戦4勝(旧3-新5歳時)。ジャパンダートダービー(統一Gl)制覇。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『消えゆくダービー』

 2022年6月に発表されたダート路線の改革案は、日本競馬のダート界に1998年の統一グレード導入以降最大級の衝撃をもたらした。その改革案によれば、2024年以降、地方競馬の盟主・南関東競馬のクラシックレースである羽田盃、東京ダービーをJRAや他地域に開放したうえでダートグレード競走のJpnlに位置づけるとともに、現在は夏に行われているジャパンダートダービーの名称を「ジャパンダートクラシック」と変更したうえで実施時期を秋に移行し、この3つのレースをもって「3歳ダート三冠競走」として位置づけるというのである。

 日本の競馬界における「ダービー」という名称は、世代王者決定戦であるクラシック・レースの中において最高の格式あるレースというイメージが定着している。そのイメージを前提とすると、「3歳ダート三冠」の中に「ダービー」が2つあるのは、不都合とも言えるかもしれない。

 ただ、統一グレード導入前後、まだ競走馬の年齢表記が数え年表記だったころに存在した「4歳ダート三冠」では、三冠レースのうち2つは「ダービー」の名を冠していたが、特に不都合はなかった。しかし、今回は東京ダービーだけに「ダービー」の名を残し、ジャパンダートダービーから「ダービー」の名を消すという選択が、これらのレースの格式にどのような影響をもたらすのか、興味は尽きない。

 今回の改革によって大きな影響を受けるジャパンダートダービーは、1999年の創設以降、多くの名馬たちが名勝負を繰り広げてきたレースである。創設当初は2つ、そして06年以降は唯一の旧4歳(現3歳)世代限定の統一GlないしJpnlとして、25年間にわたって世代別ダート王決定戦の役割を果たしてきたこのレースが、「3歳ダート三冠」のためにジャパンダートクラシックへ改編され、その歴史をいったん閉じることについては、感慨深いものを感じるファンも少なくないだろう。

 2000年の第2回ジャパンダートダービーを制したマイネルコンバットは、JRA所属馬として初めてこのレースを制した馬である。「4歳ダート三冠」が幕を開け、まだ短い歴史を閉じていなかった20世紀最後の年、ダート戦線の黎明期に足跡を残した彼の歩みを振り返ってみたい。

『誕生』

 1997年3月14日、マイネルコンバットは、浦河の高松牧場で産声をあげた。父はデビューからわずか2ヶ月の間に英愛ダービーを制したコマンダーインチーフ、母はJRAで8戦1勝の戦績を残したプリンセススマイルである。

 マイネルコンバットは、プリンセススマイルの第4子にあたる。プリンセススマイルはもともと社台ファームで生産されたが、繁殖牝馬セールに出された際に、高松牧場によって購入された。そして、高松牧場で彼女が産んだ3頭の兄のうち、アガペーとサンキューホーラーは、最終的にはJRAの準オープン級まで出世する。当時はまだ兄たちがどこまでの戦績を残すのかを知るべくもないが、それでも長兄のアガペーは、もう条件戦をちょくちょく勝っていた。

 マイネルコンバットの血統は、アガペーと同じくNorthern Dancer系の同系配合で、それもNorthern Dancerの4×3といういわゆる「奇跡の血量」を持つ(厳密には、兄は4×4×3)。アガペーが勝つたびに、マイネルコンバットに対する牧場の人々の期待も高まっていくことは、むしろ自然な流れだった。

 マイネルコンバットが生まれたころ、高松牧場の経営者夫婦はある理由で夫婦喧嘩になっており、夫人が

「別れる!」

と言っていた。しかし、生まれたマイネルコンバットは、馬体の柔らかさが目立つ子馬で、

「あの子が競馬場で走るところを見てみたい」

と思って離婚を思いとどまることにしたという。マイネルコンバットは、競馬場で走る前から高松牧場の家族を守っていた。

 そんな期待の子馬への買い付けの申し込みは、高松牧場の人々を歓喜させた。その申し込みの主は、「マイネル」「マイネ」の冠名で知られる一口馬主クラブ「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の代表である岡田繁幸氏だった。

『相馬の天才~「総帥」の原点~』

 岡田氏は、1973年の朝日杯3歳Sを制したミホランザンなどを輩出した岡田蔚男牧場の長男として生まれた。大学中退後、本場の馬産を学ぶという名目で、実際には今後の人生の道標を探すために渡米し、米国の牧場に滞在していた際、世話を頼まれた牝馬を見出したところ、それが後に無敗の10連勝でニューヨーク牝馬三冠を制しながら悲劇的な最期を遂げるラフィアンだったことで知られており、後に彼が設立した牧場やクラブの名前も、彼女にあやかっている。

その後、日本へ帰国した岡田氏は、馬産に本格的に携わっていくことは決意したものの、「父の牧場を引き継いだのでは、本当の意味での自分の馬産ができないから」という理由で、父の牧場の継承権は弟に譲り、自分は自前で一から牧場を立ち上げることにした。

また、彼は自前の牧場の生産馬からだけではなく、「ラフィアンを最初に見出した男」という肩書で馬産地を直接訪ね、自ら見て回った子馬の中から眼鏡にかなった子馬を買い付けて馬をそろえるという手法をとった。・・・というよりも、主力はどちらかというと後者だった。

とはいっても、当時の馬産地では、目立った実績や血統を持つ馬になればなるほど、母馬やなじみの調教師との人間関係で、「生まれた時には馬主が決まっている」というパターンが多かった。そこで、岡田氏が馬を求めて回るのは、大馬主や調教師とのパイプを持たない中小牧場が多かった。

岡田氏の名前が一般のファンの間でも知られるようになったのは、1986年の日本ダービーである。彼が自らの所有馬として送り込んだグランパズドリームは、父が内国産馬カブラヤオー、母に至ってはサラ系のサラキネンという、当時の血統水準からしても目立たない…というよりは、逆の意味で目立つと言っても過言ではない血統のサラ系だった。しかし、それまでどんな馬を買っても認めてくれなかった父親の蔚男氏に

「本当にいい馬を見つけた。これだけは見に来てほしい」

と伝えたところ、蔚男氏も見に来て、

「本当にいい馬だな…」

と、初めてほめてくれたのだという。

『相馬の天才~おじいちゃんの夢~』

 蔚男氏は、その馬のデビューを見ることなく、亡くなってしまった。岡田氏は、自身の長男を可愛がってくれた父が最後に認めてくれた馬に「グランパズドリーム」と名付けて自身の名義で走らせ、青葉賞(OP)2着で日本ダービー(Gl)に出走を果たした。

 日本ダービーではテン乗りの田原成貴騎手が騎乗したが、皐月賞で2着だったフレッシュボイスが故障で回避してがっかりしていたところに騎乗依頼を受けたという田原騎手は、

「馬主も調教師もあまりに威勢がいいから(依頼を)受けた」

という。

 とはいっても、9戦2勝で勝ったのは条件戦のみ、重賞実績もないに等しいグランパズドリームは、23頭立てで単勝4370円の14番人気と、まったく人気がなかった。しかし、レースになると、大混戦の中でグランパズドリームは経済コースを通って先に抜け出し、一時は2,3馬身差をつけた。

 そこからダイナガリバーが飛んできて、激しい一騎打ちとなったが、最後は差し切られて、半馬身屈した。

 この日、馬主席に応援に来ていた岡田氏は、ダイナガリバーの生産者である社台ファームの吉田善哉氏が、65歳で初めてのダービー制覇を果たし、人目もはばからずに泣く姿を見ながら、

「初めてダービーの重みを知った」

と言い、善哉氏自身から

「君はまだ早い」

と言われたとも語っている。この時、「ダービーは近いうちに必ず獲れる」と思っていたという岡田氏にとって、この時の半馬身が生涯にわたって決定的なものになることなど、知る由もない。

もっとも、グランパズドリームでいきなり日本ダービー2着という結果を残し、さらにサラブレッドクラブ・ラフィアンでも「マイネル」「マイネ」の冠を持つ馬が早い時期から実績を残したことで、岡田氏に関する噂は、

「ラフィアンの馬は、安い割によく走る」

「岡田氏が選んだ馬は、血統が悪くてもよく稼ぐ」

と変わっていった。「相馬の天才」と呼ばれる岡田氏の名前は馬産地に広く知れ渡り、中小牧場の牧場主の中には「岡田さんに買ってもらえるような馬を作る」ことを目標として掲げる者も少なくなかった。

 マイネルコンバットを認めた岡田氏とは、そんなホースマンだったのである。

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