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マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~

『逃げる南関の雄』

 第2回ジャパンダートダービーは、スタート時にサザンスズカがつまづいて騎手が落馬し、競走中止となるハプニングとともに幕が上がった。

 序盤からレースを引っ張ったのは、大半の予想通り、南関東の雄イエローパワーだった。イエローパワーはもともと逃げ一手の馬で、4連勝で制した羽田盃も4馬身差での逃げ切り勝ちだった一方、1番人気を背負った東京ダービーでは、逃げそこなって7着に沈んでいる。そんな生粋の逃げ馬が覚悟を決めた迷いなき逃げに対しては、他の先行馬たちも道を譲らざるを得ない。

 イエローパワーが刻んだペースは、前半1000m61秒7だった。もともと当時の大井2000mは、時間がかかるコースとして知られている。同年に同条件で行われた東京ダービーの勝ちタイムは2分6秒9(ヒノデラスタ)である。また、67年から95年まで2000mで行われた羽田盃のレコードは、2分4秒4(80年タカフジミノル)となると、イエローパワーがこのペースのまま逃げ切れるとは考えにくい。

 それに対し、1番人気アグネスデジタルは、早くから好位につけていた。前走の名古屋優駿では、まさに同じ好位からの競馬で押し切って、驚異のレコードタイムを叩き出した馬である。マイネルコンバットを含む他の有力馬たちは、標的を1番人気のアグネスデジタルに切り替え、その動きに注意を配るというセオリー通りの競馬に落ち着いていった。

『消えた大本命』

 ところが、その後のレース展開は、大方の予想とは全く異なるものとなった。向こう正面で、スタート直後から先頭でレースを引っ張ってきたイエローパワーより先に、好位につけたアグネスデジタルの手応えが、早くも怪しくなっていたのである。的場均騎手の手が動いている。それなのに、馬がいっこうに反応しない。

 アグネスデジタルのこの時点までの戦績のうち、ダートでは7戦4勝という結果を残しており、4着以下になったことはない。ダート巧者のはずのアグネスデジタルなのに、この走りは何なのか?  …結局、勝負どころの直線で、抜け出すはずの馬群に呑みこまれ、そのまま沈んでいったアグネスデジタルは、14着に敗れ去った。誰も予想しなかった惨敗の理由は今なお不明とされ、当時は「距離が持たなかった」という声が強かったが、2000mも持たないはずがないことは、後の歴史が証明している。JRAや名古屋競馬場とは違う、大井競馬場の深く時間のかかる馬場に敗因を求めるものもあり、後に芝とダートを問わず、さらにはJRA、地方、そして海外でGl6勝を挙げ、「真の勇者は、戦場を選ばない」と謳われたアグネスデジタルだが、この日から引退までの間、再び大井競馬場のレースを使われることは、ついになかった。

『勝負の刻』

 時計の針をレース中に戻そう。向こう正面あたりでのアグネスデジタルの変調は、彼をマークしていた他の馬たちにも伝わっていた。彼らにとって、それは大きな分水嶺である。果たして仕掛けるべきか、さらに待つべきか…?

 大西騎手の決断は早かった。ここで動かなければ、もうイエローパワーをつかまえることができなくなると読み、肚を固めた。

 第3コーナー手前でアグネスデジタルに見切りをつけた大西騎手は、マイネルコンバットにゴーサインを出した。馬も抜群の感触でそれに応え、近くにいたブラウンシャトレーとジーティーボスが決断を迷う間隙を突いて外から進出を開始した。

 大観衆が本命馬アグネスデジタルの凡走に騒然となる中、発走から終始自分の思うままの走りでレースを作ってきたイエローパワーは、いまだに先頭のまま、ゴールを懸命に目指していた。逃げのペースが速すぎるとみられて一度は見切られたイエローパワーだったが、直線に入ってからも失速しそうな気配はまったくない。残り200m付近では、実際の差はもう少し小さく見えるが、

「イエローパワー、先頭だ!4馬身から5馬身のリード!」

と実況される勢いを維持し、残り100m地点に達しても、末脚は力強さを残していた。

 そんなイエローパワーに対し、ようやく馬群を突き抜けて迫ってきたのが、馬群の内を縫うように上がってきたタキノスペシャルと、馬群の外を衝いてきたマイネルコンバットだった。

『決着』

 それまで粘ってきたイエローパワーだったが、残り50m付近で力尽きたのか、その攻勢はついに終末点を迎えた。脚が上がったイエローパワーと追い込む2頭との差は、みるみる縮まっていく。さらに後方からは、もう1頭の南関東クラシック馬である東京王冠賞馬アローウィナーが出色の末脚でぐんぐん伸びてくる。しかし、最後方からの強襲で仕掛けが遅れたアローウィナー、馬群の内側で窮屈なスペースから抜けてくる際に相当のロスを負っていたタキノスペシャルの末脚では、イエローパワーに届かない。

 外から早めに仕掛けつつ、余力も残していたマイネルコンバットだけは違った。最後の勝敗が「イエローパワーが粘るか、マイネルコンバットが間に合うか」だけであることは明らかだったが、大西騎手すら

「最後までかわせるとは思っていなかったですよ」

という。しかし、ゴールの直前にイエローパワーとマイネルコンバットがはっきり重なり、そしてゴールの瞬間はマイネルコンバットがはっきりと前に出ていた。

 マイネルコンバットは、第2回ジャパンダートダービーをクビ差で制し、世代のダート王に戴冠した。勝ちタイムの2分6秒4は、同年に同じコースで行われた東京ダービー勝ち馬ヒノデラスタのそれよりも0秒5速い。前年はオリオンザサンクスに屈して初代ジャパンダートダービー馬の地位を南関東に譲ったJRAだったが、この年はマイネルコンバットが雪辱を果たした形となった。

『それぞれの思い』

 勝利の後にマイクを向けられた稲葉師曰く、

「ダートは強いねえ。もう芝は使いませんよ。今まで芝を使ってきたのは、私の判断ミスでした」

と自身のこれまでの不明を認め、今後はダート路線に専念することを明らかにした。また、大西騎手も

「この馬には砂の深い馬場もぴったり。(中略)この馬はダートを使うようになってから、本当に走るようになった。これから先、ダートで活躍していくのが楽しみです」

と語っている。この時点で日本ダービーとジャパンダートダービーを両方制した騎手は史上初であり、「ダービー連対率100%」の継続とあわせて、大西騎手の「ダービー男」ぶりが、ごく一部で話題となった。

 彼に深くかかわったホースマンと言えば、最初に彼を見出した岡田氏も忘れてはならない。岡田氏が率いる「マイネル軍団」にとって、これは初めての統一Gl制覇、そして「ダービー」という名を持つレースの制覇でもあった。・・・ただ、日本ダービーに向けた思いの強さが有名な岡田氏は、前々日のセレクトセールで「フランクアーギュメントの2000」を当時の史上最高価格となる3億2000万円で競り落として話題となったこともあり、この日は大井競馬場ではなくテレビ観戦だったという。ジャパンダートダービーを「ダートのダービー」とみる視点は、さすがの岡田氏と言えども、まだ持ちえなかったようである。

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