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マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~

『軍団の尖兵として』

 岡田氏によって買われた子馬は、ラフィアンの募集馬として、総額3000万円で一口馬主を募ることになった。もともとラフィアンは、当時から存在した一口馬主クラブの中でも、「サラリーマンでも手が届く」という低価格帯での価格が特徴とされていたが、同年のラフィアンの約70頭の募集馬の中で、マイネルコンバットは高額な方から8番目だったという。

 ちなみに、この年の「マイネル軍団」における最高額の募集馬は、Thunder Gulch産駒の外国産馬マイネルナトゥールで、募集価格は、当時のマイネル軍団にとっての史上最高価格となる総額1億3000万円だったが、条件戦を2勝しただけでターフを去っている。この馬は別格としても、それ以外にも募集価格がマイネルコンバットより高い馬が6頭(最高価格は4000万円)もいた事実は、当時のマイネルコンバットの位置づけが「期待馬の1頭」ではあっても、最高クラスではなかったことを物語っている。

 何はともあれ、岡田氏に見出された「マイネル軍団」の一角として、マイネルコンバットは誕生した。後に入厩先に決まった稲葉隆一厩舎は、同期の最高額馬マイネルナトゥールの管理を任せられたことからも分かる通り、「マイネル軍団」の主戦厩舎のひとつとされており、1998年にはスプリンターズS(Gl)をマイネルラヴで制している。

『前途遼遠』

 稲葉師の下でデビューに向けて調教を積んだマイネルコンバットは、仕上がりも順調で、旧3歳夏には早々に新潟でデビューすることが決まった。

 この時期の「マイネル軍団」のイメージの中に、「旧3歳戦に強い」というものがあった。名馬の多くがそうであったように、マイネルコンバットもデビュー戦で初勝利を飾り、そのまま連戦連勝・・・といけばよかったのだが、そうは問屋が卸さない。

 芝1200mの新馬戦でデビューしたマイネルコンバットは、単勝290円の1番人気に推されたものの、勝ち馬と0秒4差の6着に敗れた。さらに、同一開催であれば新馬戦への出走が可能だった当時の規則に基づいて連闘で臨んだ2戦目、その後、中1週で臨んだ3戦目も、いずれも2着に敗れた。新馬戦を3回走りながら初勝利を挙げられなかった彼の初勝利は、デビューから5戦目の未勝利戦を待たなければならなかった。

 後にGl級に出世する馬たちは、初勝利までは時間がかかったとしても、馬が競馬を理解した後は能力の違いで一気に上昇するパターンが少なくない。ところが、マイネルコンバットは、その点でも異なっていた。5戦目の初勝利で500万下に昇級した後も、4着、5着、9着、7着(ジュニアCへの格上挑戦)、10着と凡走を繰り返した。いや、繰り返したというより、走るごとに着順を落としていった。

「ここまでの馬なんじゃないか…」

という見方が出てきたとしても、仕方のない戦績である。

『ダートへの招待』

 通算成績が10戦1勝となったマイネルコンバットは、ここでひとつの転機を迎えた。それまで欧州の芝で実績を残したコマンダーインチーフのイメージで芝のレースを使われてきたマイネルコンバットだったが、その一方で、

「胴が詰まった体型は、芝よりダート向きのパワー馬なのではないか?」

という見方もあった。そこで、稲葉師は、マイネルコンバットの11戦目にして、初めてダートのレースに挑戦させることにした。

 マイネルコンバットのダートでのデビュー戦は4歳500万下の平場戦だったが、14頭だてで単勝2120円の8番人気というオッズが物語る通り、ファンからはまったく期待されていなかった。

 ・・・しかし、マイネルコンバットは、このレースで勝ち馬とクビ差の2着に粘りこんだ。3着馬には5馬身差をつけており、力の差は歴然としていた。

 続くダート2戦目の4歳500万下平場戦では2番人気で4着と期待を裏切ったものの、引き続きダートへの挑戦を続け、福島に遠征してたけのこ賞(500万下)に臨んだ。この時、マイネルコンバットの鞍上には、大西直宏騎手の姿があった。

『ダービー・ジョッキーとともに』

 大西騎手は、もともとマイネルコンバットにデビュー戦から6戦連続で騎乗し、主戦騎手的な立場にいた。

 大西騎手は、3年前の97年に皐月賞と日本ダービーをサニーブライアンで制した「ダービー・ジョッキー」である。もっとも、皐月賞制覇以前の重賞制覇はアラブのレースだけで、前年の96年は年間を通じて8勝しか挙げていない。二冠制覇の勢いに乗って最終的には21勝を挙げた97年も、日本ダービー制覇時点では4勝であり、そのうち3勝はサニーブライアンで挙げたものである。このように、騎手としては忘れられかけた存在だった大西騎手だが、二冠達成を機に急上昇し、98年には28勝、99年には38勝とキャリアハイを相次いで更新し、存在感を高めつつあった。

 そんな大西騎手には、ローカル開催、特に福島開催に強いという特徴があり、後に吉田豊騎手からは、

「福島の芝が荒れてきたら、もう大西さんの天下」

と評されている。・・・しかし、マイネルコンバットが未勝利を脱し、中央開催への出走が中心になった後は、鞍上を他の騎手に譲ることが多くなっていた。そんなダービー・ジョッキーが、マイネルコンバットの鞍上に復帰したのである。

 得意な福島開催ということもあって、5戦ぶりとなった大西騎手とのコンビでたけのこ賞に臨んだマイネルコンバットは、道中抑えきれないほどの手応えでレースを進め、直線では後続を突き放す強い競馬で2着馬に7馬身差をつけ、2勝目を挙げた。大西騎手との相性は、明らかに合っていた。

『決断』

 たけのこ賞を勝った時点でのマイネルコンバットの戦績は、13戦2勝となった。格上挑戦したジュニアCで7着に敗れた以外は、すべて条件戦での実績である。そして、たけのこ賞が行われた2000年4月29日は、同日の東京競馬場で日本ダービー(Gl)のトライアル青葉賞(Glll)が開催され、カーネギーダイアンが勝っている。

 まだ2勝馬に過ぎないマイネルコンバットを日本ダービーに間に合わせることは、非常に厳しい。

 その一方で、マイネルコンバットの戦績をダート戦に絞ると、3戦1勝、2着1回、掲示板1回…となる。数字を比較してみると、マイネルコンバットの適性は、明らかに芝よりダートにある。

 しかも、当時のJRAのレース体系上、4歳春のダート路線の上級レースは非常に限られていた。マイネルコンバットのローテーションがダート路線へと向かっていくのは非常に自然な流れである。

 こうしてマイネルコンバットは、初めての重賞となる名古屋優駿(統一Glll)へ向かうことになった。

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