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マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~

『オーロパークに堕つ』

 こうしてジャパンダートダービーを勝ち、世代のダート王としての名乗りをあげたマイネルコンバットにとって、秋の大目標となりうるレースは、ユニコーンS(Glll)であり、またダービーグランプリ(統一Gl)という「4歳ダート三冠」だった。

 ジャパンダートダービーに続いてこれらのレースでも勝てば、世代ダート王としての地位は盤石のものとなる。その後はジャパンCダート(Gl)、東京大賞典(統一Gl)、フェブラリーS(Gl)ないし川崎記念(統一Gl)といったダートGlの連戦を通じて上の世代との雌雄を決し、ダート王として君臨する。それは、この時点でのマイネルコンバットにとって、決して非現実的な野望ではない。…そのはずだった。しかし、マイネルコンバットの栄光の季節は、ここまでだった。

 ジャパンダートダービーの後、放牧されて休養に入ったマイネルコンバットだったが、その後の戦線復帰は遅れてユニコーンSには間に合わず、復帰戦は2000年11月3日のダービーグランプリとなった。ダービーグランプリは、盛岡競馬場で行われ、こちらも「ダービー」の名を冠する「4歳ダート三冠」の最終関門である。

 臨戦過程が不安視されたのか、この日の1番人気は、「マイネル」は「マイネル」でも、マイネルコンバットではなくマイネルブライアンだった。通算成績は7戦4勝だが、ダートに限ると5戦4勝であり、マイネルコンバットがジャパンダートダービーを勝った翌日である7月13日に行われたグランシャリオC(統一Glll)を勝っている。前走のユニコーンS(Glll)でアグネスデジタルの4着に敗れてダート初敗北こそ喫したものの、ここではひと叩きでの上積みが期待された形である。前走でGl登頂を果たし、実績ではマイネルブライアンを上回るマイネルコンバットだったが、この日は2番人気にとどまった。

 しかし、「ダービー」の名を冠するもうひとつの大舞台の主役は、彼らではなかった。名古屋優駿は逃げ崩れて4着に終わり、ジャパンダートダービーは回避し、その後も今ひとつの成績が続いて4番人気にとどまったレギュラーメンバーが、この日は序盤から後続を4,5馬身差引き離して単騎逃げに成功した。人気と評価を落とした逃げ馬は怖いと言われる通り、直線に入ったレギュラーメンバーは、むしろ加速して後続との差を大きく広げ、2着ミツアキサイレンスに2秒1という大差をつけてゴールした。…そんな衝撃的なレースのはるか後方で、マイネルコンバットは、レギュラーメンバーから遅れること3秒6、14頭立ての12着という悲惨な結果に終わった。なお、大西騎手の「ダービー」連対をダートも含めて語る際、「ダービー」をレース名に含むダービーグランプリの結果をどう扱うかについては、後にダービーグランプリ自体が統一Glとしては消滅したこともあり、衆目の一致をみていない。

『残酷すぎる現実』

 ジャパンダートダービーで世代の頂点に登りつめたマイネルコンバットだったが、ダービーグランプリでの惨敗の後、その権威は急速に地に墜ちていった。

 稲葉師がダービーグランプリ後のマイネルコンバットの次走に選んだのは、ジャパンカップダート(Gl)だった。しかし、前走こそ崩れたとはいえ、前々走でGl制覇を果たしたばかりであるマイネルコンバットの単勝オッズは、なんと12030円だった。これは15頭立ての14番人気で、彼が唯一人気で上回った15番人気のトシザミカは、3走前のスパーキングレディーC(統一Glll)で初めての重賞制覇を飾ったものの、その後はクイーン賞(統一Glll)4着、トパーズS(OP)9着に沈んでいる。

 それでも、低い評価は、結果を出すことで見返すことができる。しかし、マイネルコンバットの場合、着順も低すぎる人気をひとつ上回るだけの13着に終わり、評価の正当性を自ら証明する結果になってしまった。

 ちなみに、この日は同世代のダービーグランプリ勝ち馬レギュラーメンバーも出走していたが、こちらも8番人気で10着と惨敗しており、唯一気を吐いた同世代が11番人気で4着だった牝馬の関東オークス馬プリエミネンスだけというのは、果たして彼らの救いだったのか、それとも焼け石に水だったのか。

 続く東京大賞典(統一Gl)では、ジャパンダートダービーと同じ大井2000mが舞台であるにもかかわらず、16頭立ての13番人気で16着に終わった。前走で同じように人気も着順も沈んだレギュラーメンバーがなぜか2番人気と評価を回復させ、しかも結果も2着に食い込んだこととは、あまりに対照的だった。

 年をまたぎ、マイネルコンバットの2001年は、平安S(Glll)から始まった。統一グレードを含めるとGlばかり4戦連続して出走したマイネルコンバットにとって、Gl以外の出走は名古屋優駿以来である。鞍上も福永祐一騎手に乗り替わり、これまでとは違う環境でなんとか復活のきっかけをつかみたい…という陣営の思いは強かった。

 しかし、現実は残酷である。マイネルコンバットは、ここでも16頭立て14番人気で14着に敗れた。13番人気で10着だったタヤスアンティームは、これまで30戦6勝、前々走の春待月S(1600万下)を勝ったものの、前走のベテルギウスS(OP)は10着と大敗している。重賞勝ちもない…というより、出走歴すら99年東京大賞典と00年マーチSのみで、それぞれ9番人気9着、9番人気11着と、まったく歯が立っていない。そんな馬より低い評価にとどまり、着順でも後れを取るというのが、Gl制覇から半年が経ったマイネルコンバットの現在地だった。

 その後も、マイネルコンバットはいくつかのレースに出走したものの、全く結果を残せないまま敗戦だけを重ねていった。ダービーグランプリ以降は入着どころか掲示板に載ったことすらブリリアントS(OP)5着だけに終わり、栄光を共にした大西騎手も、いつしか鞍上から遠ざかっていった。やがてマイネルコンバットは、長期休養に入っていった。

『新しい道』

 2002年3月3日、前走の灘Sから約8ヶ月ぶりとなる仁川S(OP)で復帰したマイネルコンバットだったが、もうこの時期には競走馬としてのピークが過ぎていることは明らかだった。仁川Sでは16頭立ての16番人気13着、そして次走のマーチS(Glll)でも16頭立ての14番人気16着、それも勝ち馬からはそれぞれ3秒2、1秒9も離されているとなれば、もはや相手関係がどうのこうのというレベルではない。

 そして、マイネルコンバットの次走は、マーチSから約1ヶ月半の間隔を置いた東京競馬場の第5レースと定められた。レース名は、「障害4歳以上未勝利」。障害転向。それが、岡田氏と稲葉師が下した新たな決断だった。

 障害競走に転向したGl級勝ち馬の中で最も有名なのは、65年の菊花賞勝ち馬ダイコーターである。悲劇的な最期を遂げた名馬キーストンのライバルとしても知られるダイコーターは、平地では26戦12勝をあげ、菊花賞以外にもスプリングS、NHK杯、神戸杯、きさらぎ賞優勝、皐月賞、東京優駿2着という戦績を残している。特に旧4歳までの戦績は13戦10勝、2着2回、3着1回というほぼ完璧なもので、歴代菊花賞馬の中でも上位の存在として扱われても不自然ではない。だが、古馬になって喘鳴症を患い、戦績を落としたことで評価を大きく落とし、旧7歳時に障害戦を走って4戦1勝の戦績を残した後、引退している。

 これ以外には、89年の阪神3歳S(Gl)勝ち馬コガネタイフウ、99年の秋華賞(Gl)勝ち馬ブゼンキャンドルなども有名である。なお、マイネルコンバット以降では、99年のダービーグランプリを制したタイキヘラクレス、03年NHKマイルC(Gl)を制したウインクリューガーなども障害入りしている。変わり種としては、Gl制覇前のメジロパーマーが、いったん障害入りした後に平地へ出戻り、92年に宝塚記念、有馬記念の両グランプリを制覇している。

 とはいえ、障害は現在に至るまで「Gl馬の走るレースではない」という評価が率直なところで、特にクラシック戦線の主役として活躍したダイコーターの時は、関係者が軒並み叩かれたとのことである。日本ダービー制覇の後に32連敗を喫し、一部で「最弱のダービー馬」などとささやかれたオペックホースも、障害への転向が検討されたが、

「日本ダービーを勝った馬に障害を走らせるなんてあんまりだ」

ということで見送られ、そのまま引退している。

 「障害競走」…マイネルコンバットが歩むことになった新たな道とは、そんな道だった。

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