オグリローマン列伝~約束された奇跡~
1991.5.20生。2015.3.3死亡。牝。芦毛。稲葉不奈男(三石)産。
鷲見昌勇厩舎(笠松)→瀬戸口勉厩舎(栗東)。
15戦7勝(旧3-4歳時)。桜花賞(Gl)制覇。
(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
『オグリの妹』
日本の競馬界の歴史の中で「名馬」と呼ばれた馬は少なくないが、その中でも「歴史を変えた」と明言しうる存在は、ごく限られる。そんな少数の歴史的名馬の1頭が、オグリキャップである。
オグリキャップは、1987年から90年にかけて、32戦22勝の戦績を残した名馬である。地方競馬の中でも決して主流とはいえない笠松競馬でデビューし、やがてJRAへと移籍して様々な強豪と死闘を繰り広げ、2度の有馬記念(Gl)制覇を含むGl4勝を果たし、現役最後の年である90年には安田記念(Gl)と有馬記念を制覇によってJRA年度代表馬に輝いた劇的な競走生活は、多くの大衆の心をとらえ、競馬人気の爆発的な成長のきっかけをもたらしたことで知られている。
ただ、オグリキャップが人気を集めた要素は、単なる競走成績だけではない。JRAへ転入した4歳(現表記3歳)時に、圧倒的な強さを見せながら、クラシック登録がなされていなかったがゆえに最も格式あるクラシック・レースへの出走が許されなかったという悲劇性が彼の人気に大きく影響したことも、厳然たる事実である。幼駒時代のクラシック登録がされていなかったために皐月賞、東京優駿への出走を許されなかったオグリキャップが、「裏街道」と呼ばれる重賞を次々と制し、夏に高松宮杯(Gll)で古馬たちまで撃破したことで巻き起こった
「強い馬が出られないクラシック・レースとは何なのか」
という疑問は、やがて追加登録料の支払によるクラシックの追加登録を認める制度改革、そして後の「世紀末覇王」テイエムオペラオーによる99年の皐月賞や「みんなの愛馬」キタサンブラックによる15年の菊花賞制覇へとつながっていく。
ただ、その生涯が様々な角度から語られるオグリキャップだが、彼自身が出走できなかったクラシック・レースを、彼と非常に縁の深い牝馬が達成していることについては、近年意識されることが少なくなっているように思われる。そこで、今回のサラブレッド列伝では、オグリキャップの6歳下の半妹であり、1994年の桜花賞を制して兄の果たせなかった夢をかなえたオグリローマンについてとりあげてみたい。
『ある伝説の終わり』
1990年12月23日は、日本競馬における伝説のひとつとして記憶されている。この日、中山競馬場で開催された有馬記念(Gl)で、当時の最強馬と認められていたものの、秋は不振が続いて「もう終わった」と言われていたオグリキャップが優勝し、「奇跡」とも呼ばれた復活を遂げたのである。
笠松競馬でデビューして連戦連勝の強さを見せたオグリキャップは、JRAに転入した後も、「三流血統」「雑草」などと呼ばれながら、88年はタマモクロスとの「芦毛対決」、89年はスーパークリーク、イナリワンとの「平成三強」を形成して数々の名勝負を繰り広げ、日本競馬史の中でもレベルが高すぎる同時代のライバルたちとの過酷な戦いの中心にあり続けた。しかし、現役最後の年となる90年は、安田記念(Gl)こそレコード勝ちを飾ったものの、確勝とみられた宝塚記念(Gl)で伏兵オサイチジョージから大きく離された2着に敗れると、秋は天皇賞・秋(Gl)6着、ジャパンC(Gl)11着と惨敗を繰り返し、6歳(現表記5歳)という年齢もあって、有馬記念を最後に引退が決まっていた。
そして、最後のレースとなる有馬記念に出走したオグリキャップは、定員が17万人とされる中山競馬場に集結した17万7779人の大観衆の前で、天皇賞・秋で皐月賞に続くGl2勝目を達成したヤエノムテキ、宝塚記念でオグリキャップを下したオサイチジョージ、90年のクラシック戦線を牽引したメジロライアン、ホワイトストーンといった当時の強豪たちを相手に勝ち切り、自身の物語に美しい終止符を打ったのである。
オグリキャップの物語は、「三流血統の地方馬」が、約3年半の競走生活で9億1251万2000円の賞金を稼ぎ出し、18億円のシンジケートを組まれて馬産地へと帰っていくという形で大団円を迎えた。しかし、そんな彼が残した最大の遺産は競馬界の爆発的な人気であり、彼がJRAへ転入する直前の87年に過去最高の約251億円を記録した有馬記念の売上が、90年には480億円とほぼ倍増している。
何はともあれ、オグリキャップの引退によってひとつの伝説が終わり、大衆の関心は次なる夢へと移っていった。そして、オグリキャップを継ぐ夢は、この時、既に胎動していた。
『出会いの季節』
時を半年ほど遡り、オグリキャップが円熟期を迎えていた90年春ころ、彼の生まれ故郷である稲葉牧場で、稲葉裕治氏、馬主の小栗孝一氏、笠松競馬の鷲見昌勇調教師の三者が話し合いをしていた。オグリキャップの母ホワイトナルビーのこの年の配合…つまりはオグリキャップの弟妹の配合を相談するためだった。
オグリキャップの生産者は、書類上は稲葉不奈男氏の生産馬とされているが、実際の牧場経営は息子の裕治氏に代替わりしていたようである。小栗氏はホワイトナルビーの馬主であり、それ以前のホワイトナルビー産駒をすべて自らの所有馬として笠松競馬場でデビューさせていた。鷲見師は、そんな小栗氏の笠松競馬場における主戦調教師である。
小栗氏と鷲見師の関係は長い。1929年生まれの小栗氏は、事業に成功して28歳ころに笠松での馬主生活をスタートさせた。きっかけについては、馬券を買うだけでは満足できなくなったため、友人を誘って共同馬主になったという説と、馬券を買っても全く儲からないと不満を持っていたところ、
「馬を持てば儲かる」
と人に勧められたからという説がある。いずれにしても、馬主になってもなかなか儲からず、辞めようかとも思っていた小栗氏だったが、鷲見師に強く勧められたアングロアラブのオグリオーが活躍して笠松競馬場に「オグリオー記念」というレースまで作ってもらったことで
「(馬主を)やめられなくなった」
とのことである。
ホワイトナルビーは、オグリオーより3歳下の1974年生まれで、JRAではマルゼンスキーと同世代にあたる。鷲見師が自厩舎に迎える逸材を探して日高の牧場を渡り歩いていた際に「ピンときた」ということで、「価格は600万円だが、引退後に繁殖牝馬として牧場が200万円で買い戻す条件が付いているから、実質400万円で買える」と言って、小栗氏に持ち込んだという。
しかし、鷲見厩舎が所属する笠松競馬場を含めた東海競馬における最大のレースとされていた東海優駿の当時の1着賞金は、1000万円である。JRAを見ても、日本ダービーの1着賞金が5000万円であり、同世代の優勝馬ラッキールーラの取引価格は800万円だったと言われる時代だから、「実質400万円で買える」と言っても、元を取るハードルはかなり高い。小栗氏が、そんなホワイトナルビーを買ったのは、鷲見師の熱意に推されたから、という一点だった。
ところが、8戦4勝という戦績を残したところで故障したホワイトナルビーを約束通りに牧場へ返そうと思って引退させたところ、牧場から一方的に買戻しをキャンセルされたという。
「そんな馬鹿な話があるか!?」
と小栗氏が立腹したのも当然だが、結局小栗氏は、ホワイトナルビーを自己所有の繁殖牝馬として引き取ることにした。そこで鷲見師が、買戻しがキャンセルされる以前から彼女に興味を示していたという稲葉氏と話をつけ、彼女は稲葉牧場で繁殖生活を送ることになったのである。