オグリローマン列伝~約束された奇跡~
『もうひとつの邂逅』
オグリローマンの騎乗依頼を受けた田原騎手も、瀬戸口師の思惑をある程度察してはいたものの、だからといって依頼を断るようなことはなかった。そうした依頼は騎手の常であるばかりか、田原騎手にとっても桜花賞で対戦する相手を堂々と知ることができるというメリットもある。何より、オグリキャップと同時代を戦いながら、自分自身はついに縁がなかった騎手として、その妹からの依頼には心躍るものもあった。
オグリキャップにJRAのレースで騎乗した騎手は、河内洋騎手、南井克巳騎手、岡部幸雄騎手、武騎手、岡潤一郎騎手、増沢末夫騎手の6人であり、田原騎手はここに含まれていない。その一方で、オグリキャップがJRAに転入する前年の87年から引退する90年までの4年間に、JRAの騎手リーディング10傑入りを果たした騎手はのべ17人だが、そのうち3回以上10傑入りしているのは岡部騎手、増沢騎手、南井騎手、河内騎手、柴田政騎手、武騎手、田原騎手の7人である。オグリキャップの騎乗機会が一度もなかったのは、関東所属のうえに所属厩舎の所属馬への騎乗を基本線としていた柴田政騎手と、田原騎手だけだった。
この時期の田原騎手に、オグリキャップの有力なライバルと呼ばれる強力なお手馬がいたわけではない。オグリキャップのJRAでの20戦のうち、田原騎手が同じレースに参戦して対戦したのは、88年ペガサスS(Glll)のインターアニマート、同年毎日王冠(Gll)、同年有馬記念、89年天皇賞・秋のフレッシュボイス、90年安田記念のコガネターボの5戦だけである。
田原騎手は、83年、84年には既に全国リーディングを獲得している。88年から90年までの日本競馬を席巻した極星オグリキャップと田原騎手の接点の少なさの理由は、縁が薄かった…としか言いようがない。だからこそ、彼にとっても燃えるものがあった。
…実は、田原騎手は、オグリローマンについて、まったく前情報がなかったわけではない。前走のエルフィンSでローブモンタントに騎乗していた田原騎手は、快調に飛ばしていたはずのオグリローマンが、外から他の馬にかわされてたちまち失速していく様子を見て、オグリローマンは力尽きたのではなく、走る気をなくしたのではないかと感じていた。それゆえに、気性的な難しさを予感してはいただろう。しかし、まだ実力を出し切れていない実力を解放する可能性を信じられる立場でもある。この田原騎手とオグリローマンの1戦限りのコンビがオグリローマンに大きな変化をもたらすことになることなど、関係者の誰もが知る由もない。
『answer』
チューリップ賞当日のオグリローマンは、単勝870円ながら2番人気に支持された。芝で未勝利、前走のOP特別で9頭だて9着、今回が初の重賞挑戦…と考えてみると、信じがたい人気と言ってよいかもしれない。「オグリの妹」という看板があったことは事実だが、前年のオグリホワイトは、JRA初戦のチューリップ賞で2番人気7着に敗れると、次走の若草Sでは7番人気まで評価を落としていることからすれば、それだけで説明がつくわけでもない。ちなみに、この日、単勝150円の圧倒的1番人気に支持されたタックスヘイブンは、5戦2勝、阪神3歳牝馬S(Gl)6着、前走のクイーンS(Glll)3着という実績を見る限り、ここまでの人気になる馬でもないように思える。この時の人気の理由は、78年の米国三冠すべてでAffirmedの2着に敗れ、さらに90年に不可解な骨折による安楽死という非業の死を遂げた悲劇の名馬Alydarの最終世代となる持ち込み馬だったことと、「阪神3歳牝馬Sを勝った世代最強牝馬ヒシアマゾンに、クイーンCで差のない(クビ+2分の1差)競馬をしたから」だった。ヒシアマゾンの評価の突き抜けっぷりと、そのヒシアマゾンが出走できない牝馬クラシック戦線の混戦模様を象徴するオッズであった。
しかし、初重賞で2番人気に支持される有力馬に騎乗する機会を得た田原騎手も、オグリローマンの気性には手を焼いていた。
「こんな怖がりな馬だったのか…」
エルフィンSのレース中の光景からある程度予想がついていたオグリローマンの気性ではあったが、実際に騎乗してみての感触は、その予感を裏付ける…というよりは、予感をはるかに超えるほどだったのである。
このような形でオグリローマンの繊細過ぎる気性に直面した田原騎手だったが、チューリップ賞当日、ひとつの回答を用意していた。
レースのゲートが開くと、オグリローマンは好スタートを切った。しかし、田原騎手があえてオグリローマンを後方へと下げ、やがてレースは名古屋からの移籍馬で、ゴールドウイング賞でオグリローマンとの対戦歴もあるスリーコースの単騎逃げとなった。オグリローマンの気性を踏まえて田原騎手がとった策は、思い切った後方待機だったのである。
一般論としても、他の馬を怖がる臆病な馬に合った作戦は、逃げか追い込みといった極端な競馬であることが多い。田原騎手の策は、天才の閃きというよりは、オーソドックスな経験と思考の帰結だった。
『燃え上がる闘志?』
こうして思い切った作戦をとった田原騎手だったが、レースの開始後、大きな後悔にとらわれたという。
この日の馬場は良馬場だったが、天候は雨が降りしきっていたため、田原騎手は、雨に備えてゴーグルを2つ重ねがけしてレースに臨んでいた。ところが、後方からレースを進めた田原騎手のゴーグルは、すぐ前を行く馬たちが蹴立てた泥のかたまりに直撃されてしまった。とはいっても、泥が飛んでくること自体は想定通りで、だからこそのゴーグルを2つ重ねてかけていたが、1つ目のゴーグルを外した後に2つ目のゴーグルまで泥に直撃されてしまったのは、田原騎手にとっても計算外のことだった。
結局、ゴーグルを2つとも外してしまった田原騎手が思ったのは、これだけ泥が飛びはねる展開になると、オグリローマンも当然相当の泥を強く浴びていることだった。普通の馬でもひるみかねない厳しい展開の中で、特に臆病な性格のオグリローマンがどうなってしまうのか…。
田原騎手の危惧をよそに、チューリップ賞はいよいよ佳境を迎えようとしていた。タックスヘイブンをはじめとする他の人気馬たちが好位から伸びあぐねる中、第3コーナーを回ったあたりまで最後方にとどまっていたオグリローマンが、田原騎手の意に応え、徐々に進出を開始する。オグリローマンは、戦意を失ってはいなかったのか?
『予想外の理由』
…オグリローマンの末脚の理由は、予想外かつ一流馬にはあるまじきものだった。この時、田原騎手は、オグリローマンに対して
「なんて臆病な馬なんだ…」
と、改めてあきれにも近い感想を抱いていたという。
彼女がここで加速したのは、前の馬を追い越そうという闘志の表れではなく、このままだと他の馬に囲まれてしまうのがいやだからだということまで、彼には分かってしまっていたのである。
だが、理由はどうあれ、オグリローマンが見せた末脚は本物だった。同じように後方からの競馬を進め、一足先に抜け出したアグネスパレードを上回る勢いで押し上げ、急速に差を詰めていった。
結局、チューリップ賞は、オグリローマンがアグネスパレードに半馬身差まで迫ったところでゴールを迎えた。79年のオークス馬アグネスレディーを祖母、90年の桜花賞馬アグネスフローラを叔母に持ち、後には2000年日本ダービー馬アグネスフライト、01年皐月賞馬アグネスタキオンを輩出する名族出身の4番人気馬が、一族ゆかりの長浜博之厩舎と河内騎手に支えられて躍り出た走りの前に、オグリローマンは一歩及ばなかった。
とはいえ、この日オグリローマンが見せた末脚に一番驚いたのは、ある意味で田原騎手だったかもしれない。レース後も田原騎手は、
「こんな怖がりな馬、久しぶりにまたがったよ」
と苦笑いした通り、オグリローマンの気性的な弱さを十分に感じていた。しかも、勝負どころでの末脚ですら、その弱さゆえのものだと看破していた。それでもオグリローマンは、直線のものすごい末脚で2着に食い込み、桜花賞への出走を確かなものとした。不世出の名馬である兄とは全く違った方向性ではあるが、そんな馬はそうそういるものではない。
田原騎手は、「一度きり」の代役騎乗を見事に果たした。確かに乗りにくい馬ではあるが、実力を発揮すれば、物凄い競馬ができる。その可能性を熨斗につけてオグリローマンを瀬戸口師へ返し、自らは
「俺のローブモンタントの強敵になる・・・」
というオグリローマンへの確かな警戒を胸中に残しつつ、ローブモンタントのもとへと帰っていったのである。