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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝(上)~仁川早春物語~

 ~スエヒロジョウオー~
 1990年4月16日生。2020年4月30日死亡。牝。鹿毛。小泉賢吾(新冠)産。
 父トウショウペガサス、母イセスズカ(母父マルゼンスキー)。吉永猛厩舎(栗東)
 通算成績は、11戦3勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳牝馬S(Gl)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『仁川早春物語』

 1990年秋、JRAは翌91年のレース番組編成にあたり、それまで「西の3歳王者決定戦」として親しまれてきた阪神3歳Sを牝馬限定戦の「阪神3歳牝馬S」に改め、東西統一の3歳女王決定戦としてGlに格付けすることを発表した。

 実質的に91年から始まった阪神3歳牝馬Sは、20世紀最後の年である2000年まで続き、馬齢表記が数え年から満年齢に改められた2001年に「阪神ジュヴェナイルフィリーズ」とその名を改めている。20世紀の終焉とともに姿を消した「阪神3歳牝馬S」の勝ち馬は、全部で10頭ということになる。

 ところで、日本のホースマンたちの意識の中では、3歳戦(現表記では2歳戦)を勝つために最も重要な仕上がりの早さは、単体での「名馬の条件」とされてこなかった。それゆえに3歳Glは、サラブレッドたちの最終目標としては位置づけられず、ホースマンたちの目標は、あくまでも翌年のクラシック戦線やその後の古馬戦線に向けられていた。彼らの中では、3歳戦はクラシック戦線の「予選」にすぎない、という意識が強く、その固定観念は、3歳牝馬にとって唯一のGlである阪神3歳牝馬Sについても例外ではなかった。

 前記のとおり、「阪神3歳牝馬S」として行われたレースは1991年から2000年までの10回で、その歴史には10頭のサラブレッドが勝ち馬として刻まれている。その阪神3歳牝馬Sの歴史を振り返ると、確かにこのレースが翌年以降のGlの「予選」としての役割を果たした年も珍しくない。91年ニシノフラワー、93年ヒシアマゾン、96年メジロドーベル、そして2000年テイエムオーシャン・・・。彼女たちは、いずれも阪神3歳牝馬Sの勝ち馬となっただけでなく、そこからさらに大きく羽ばたいて別のGlをも手にしている。彼女たちの名前だけを見れば、阪神3歳牝馬Sが翌年以降のGlの「予選」として機能していた、という見方は誤りではないように思われよう。

 だが、強さと仕上がりの早さを両方備えた名馬としての彼女たちを除いて考えた場合、阪神3歳牝馬Sというレースが果たしてどのようなレースだったのか、このレースの勝ち馬たちが果たしてどのようなサラブレッドだったのかという疑問は、異なる展開を見せる。先に名前を挙げた4頭以外の6頭の名前と戦績をみると、このレースの勝者たちを単純に色分けすることの難しさに気づく。彼女たちにはそれぞれの違った特徴と物語があり、「同じレースを勝った」という共通点以外の点で結ぶことはできないのである。そこに、阪神3歳牝馬Sを単なる翌年以降のGl戦線の「予選」ととらえる画一性は存しない。

 もし彼女たちの共通点を探すとしたら、それは彼女たちが別々の顔をもつサラブレッドであるにも関わらず、勝ったレースがGlで、しかもそれ自体は最終目標とされない翌年以降のGl戦線の「予選」という中途半端なとらえ方しかされていなかったために、その勝利は彼女たち自身の幸福ではなく、むしろそれ以降の戦いを縛る枷となってしまい、本来栄光として賞賛されるべきものが、早すぎた春としてしかとらえられなかった、という悲しい物語においてである。

 そんな歴代阪神3歳牝馬Sの勝ち馬たちが仁川を舞台に綴った早春物語は、果たしてどのようなストーリーだったのだろうか。今回のサラブレッド列伝では、そんな彼女たちにスポットライトを当ててみたい。

『フロックの女王』

 1992年の阪神3歳牝馬S勝ち馬スエヒロジョウオーのイメージを当時のファンに聞いてみた場合、たいてい返ってくるのは次のような答えだろう。

「ああ、あの12万馬券のスエヒロジョウオーか・・・」

 1991年の阪神3歳牝馬Sを9番人気で制し、さらに2着に13番人気の馬を連れてきたために、馬連120740円の配当を演出したこと。スエヒロジョウオーについてのファンの記憶は、その一点に集約されている。彼女の別の姿を思い出すというファンは、競馬ファン全体の中でも極めて少ないであろう。

 それもそのはずで、スエヒロジョウオーの通算成績は11戦3勝、阪神3歳牝馬S以外の勝利は未勝利戦、きんせんか賞(500万下特別)でのもので、重賞勝ちは阪神3歳牝馬Sひとつだけである。さらに、彼女が敗れた8戦を見ても、函館3歳S(Glll)で5着に入ったのを除くと、あとは掲示板にすら載っていない。人気でも生涯1番人気に支持されたことがなかったのはもちろんのこと、5番人気以内に入ったことすらチューリップ賞(OP)で3番人気になった時の一度きりというのだから、念が入っている。

 そんなスエヒロジョウオーの勝利には、「フロック」という評価がつきまとう。・・・「フロック」という言葉は、本来Gl馬に対して使うのは非常に失礼な形容であるが、ことスエヒロジョウオーに関していうならば、それ以外の形容は見つからない。

 ただ、スエヒロジョウオーの場合、「フロック」を貶し言葉としてとらえることは間違いと言っていい。なぜなら、スエヒロジョウオーの名前は、その「フロック」のイメージの強烈さゆえに、並の阪神3歳牝馬S勝ち馬よりもはるかに深く競馬史、そしてファンの記憶に焼きついているからである。

『小さな雑草のように』

 スエヒロジョウオーの生まれ故郷は、小泉賢吾氏が個人で経営する牧場(現・小泉牧場)である。

 スエヒロジョウオーの血統は、母がイセスズカ、父がトウショウペガサスというものである。イセスズカはスズカコバンやサイレンススズカの生産牧場として知られる稲原牧場の生まれで、マルゼンスキーの娘という血統的な魅力もあったが、なにぶん通算成績が13戦1勝では注目されるはずもなく、引退後は小泉牧場に引き取られていた。そんなイセスズカと交配されたトウショウペガサスも、重賞2勝でGl勝ちはなく、「トウショウボーイの半弟」という血統的背景がなければとうてい種牡馬入りできないクラスの種牡馬である。後に彼がスエヒロジョウオー、そしてフェブラリーS(Gl)勝ち馬グルメフロンティアを出して2頭のGl馬の父となることなど、当時の人々には想像もつかなかったことだろう。要するに、スエヒロジョウオーは、血統的には注目されるはずもない馬だった。

 スエヒロジョウオーは、小泉氏の自慢の土で育った牧草を食みながら順調に育っていた。この土は、小泉氏が牧場を継ぐことになった時、腰が弱い馬しか育たないことに危機感を覚えた小泉氏が、

「土の悪さを何とかしなくては、とあせったね。でも、土を改良するにはカネがかかる」

ということで、自分の肉体で掘り返し、生き返らせた土だった。やがて、手を入れた土地からミミズが大量に湧いて出たことで

「これならいける!」

と自信をつけた小泉氏は土との戦いを続け、他の牧場が自分の家や生活にお金をかけていた時期も、草と馬のためにお金をかけたという。そうした成果もあって、小泉氏の牧場で育った馬たちの体質は、最初に比べて目に見えてよくなっており、スエヒロジョウオーもその成果の1頭だった。

 ただスエヒロジョウオーには、同期の馬たちと比べて馬格が小さいという問題点があった。小泉氏の自慢の牧草を食べても、馬体は不思議と大きくならない。もともと牝馬は牡馬より小さいものだが、スエヒロジョウオーの場合、同じ牝馬と並べても、明らかにひとまわり小さいのである。

 サラブレッドの馬格は、ただ大きければいいというものではない。しかし、競馬場に出れば、馬格が小さい馬も、大きい馬と対等に戦わなければならない。レース中に他の馬と激しく接触することもある。小さな馬体を跳ね飛ばされたり、馬群を割れずに閉じ込められたりしたとしても、負けは負けにしかならない。そのため、小さな馬体ゆえにホースマンたちに

「こんな小さな馬体で、レースになるのかな」

という懸念を持たれるのもやむをえないことだった。幼いころのスエヒロジョウオーとは、その程度の存在だった。

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