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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~

~ビワハイジ~
1993年3月7日生。牝。青鹿毛。早田牧場新冠支場(新冠)産。
父Carleon、母アグサン(母父Lord Gayle)。濱田光正厩舎(栗東)
通算成績は、10戦4勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳牝馬S(Gl)、京都牝馬特別(Glll)、札幌3歳S(Glll)。

『女帝になれなかった女王』

 一般の競馬ファンが1995年の阪神3歳牝馬S勝ち馬であるビワハイジに対して抱いているのは、彼女の競走馬時代ではなく、繁殖牝馬として素晴らしい結果を残したというイメージだろう。あえて競走馬としてのイメージを聞いた場合に返ってくるのは、自身の走りというよりは、「エアグルーヴを破った馬」というイメージかもしれない。

 エアグルーヴといえば、1997年に17年ぶりとなる牝馬による天皇賞制覇を成し遂げ、さらに同年のJRA年度代表馬にも選出された名牝である。日本競馬の歴史をたどっても、牡馬に混じって彼女ほどの実績を残した牝馬は、極めて限られている。

 だが、そんなエアグルーヴも、デビュー前の時期では、同世代の牝馬の中で有力馬の1頭ではあっても、唯一絶対の存在だったわけではない。「有力馬の1頭」から始まった彼女には、当然のことながらライバルと言っていい同世代の牝馬もいたのである。3歳女王決定戦である阪神3歳牝馬Sで、エアグルーヴをはじめとする同世代の牝馬たちをことごとく下して世代で初めてGlの栄光を手にしたビワハイジは、まぎれもなくその1頭だった。当時の3歳牝馬戦線では、世代を代表する牝馬という称号は、エアグルーヴではなく、間違いなくビワハイジのためにあった。

 その後の2頭の競走馬生活をたどっていくと、オークス優勝、天皇賞・秋制覇、そして年度代表馬選出・・・という歴史の世界へと足を踏み出していったエアグルーヴと違って、ビワハイジの戦績は振るわないまま終わった。「エアグルーヴのライバル」という声は忘れられ、風化していった。競走生活が終わった段階で、ビワハイジが「エアグルーヴのライバル」として対等の存在と位置づけられることは皆無であり、また無謀と言わざるを得ない状態だった。彼女たちの関係が、繁殖牝馬としては日本競馬史を塗り替えるレベルのライバル関係として復活するなど、2頭の引退直後の時点では、誰も夢にも思わなかったに違いない。

『遠い国から』

 ビワハイジは、フランスダービー(仏Gl)馬Carleonを父に持ち、また1976年の独ダービー馬Stuyvesant、85年の英国ダービー馬Slip Anchorらを輩出した名門ファミリーの出身であるアグサンを母としていた。

 アグサンの牝系を見ていくと、代々の牝馬が「S」で始まる名前を与えられてきたことに気づく。ドイツでは、馬名をつける際に母の頭文字を引き継いでいくという慣わしがある。牝系に代々受け継がれた頭文字の「S」は、彼女のルーツがドイツにあることの証でもある。

 しかし、アグサンにドイツ牝系の証である「S」が受け継がれることはなかった。彼女が生まれた時、彼女の母は既にドイツから英国へと移されていたからである。アグサンは「S」の頭文字、そしてドイツというルーツから離れ、英国の地で新たな馬生をスタートさせることになった。

 英国でデビューしたアグサンの戦績は、4戦未勝利と振るわなかった。現地で生んだ産駒たちも、さしたる評判は呼ばなかった。繁殖入り2年目から3年続けて世界的名種牡馬Carleonと交配されたアグサンだが、やがて英国からも離れて日本へと輸入されることになった。セリ市にて約2000万円で競り落とされ、初めて日本の地を踏みしめた時、彼女はCarleonとの間の3番目の産駒となる子・・・後のビワハイジを宿していたのである。1993年3月7日、早田牧場新冠支場で産声をあげたビワハイジが、世界的種牡馬を父に持つ期待の持込馬として周囲の期待を集めることは、当然の理だった。

『ビワハヤヒデのように・・・』

 生まれて2週間ほどのビワハイジに目を留めたのは、浜田光正調教師だった。彼はこの年のクラシック戦線に、同じ早田牧場新冠支場で生まれたビワハヤヒデを送り込む予定だったが、その多忙を縫って未来を託する若駒を探すために牧場を訪れていたのである。

 ビワハイジを初めて見た浜田師の印象は、

「この馬が走らないなら、走る馬なんていない・・・」

というものだった。浜田師は勇躍して「ビワ」の馬主を紹介し、ビワハイジを自分の厩舎へ入厩させることに決めた。早田牧場新冠支場で生まれた持込馬で浜田厩舎所属、さらに馬主は「ビワ」・・・それは、後に1993年の年度代表馬に輝くビワハヤヒデとまったく同じパターンであった。

「ビワハヤヒデを超えろ、とは言わないけれど・・・」

という声は、「ビワハヤヒデのようになってほしい」という願いの裏返しである。ビワハヤヒデがクラシック戦線へと向かう直前の季節に生まれたビワハイジは、デビュー前からあまりに大きな願いを背負う運命にあった。

 もともと馬体が小さなビワハイジだけに、いったんデビューに向けて動き始めてからの仕上がりは早かった。

「どのレースに使っても、勝ち負けできる・・・」

 浜田師にそんな手応えを感じさせた彼女は、結局札幌開催、それも開幕週でのデビューを果たした。1995年6月10日、彼女がデビュー戦に選んだ牝馬限定の新馬戦は、この年最初の新馬戦でもあった。

 武豊騎手を鞍上に迎えたビワハイジは、単勝150円の断然人気に支持されると、人気に応えて当然のように新馬勝ちを飾った。同世代の中で最も早い勝ち名乗りをあげた彼女は、2戦目で早くも重賞・札幌3歳S(Glll)へと挑むことになった。

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