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ノーリーズン列伝~Rebel Without a Cause~

『馬群に消ゆ』

 ノーリーズンとタニノギムレットの道が分かれたのは、第3コーナーを過ぎてからだった。直線に備えてタニノギムレットを大きく外へと持ち出した武騎手とは対照的に、蛯名騎手はノーリーズンで内を衝いた・・・ように見えた。東西のトップジョッキーを鞍上に配した彼らの明暗は、数十秒後に大きく分かれる。

 ただ1頭の優駿たる名誉を目指して駆ける18頭に向けられた群衆の熱狂は、決戦が佳境を迎える直線で昂ぶり、そして外からタニノギムレットが先行勢に襲いかかるに至って頂点に達した。皐月賞では遅すぎた豪脚が、この日は長い直線を生かして炸裂する。皐月賞で、そしてNHKマイルCで不完全燃焼に終わった無念を今ここに晴らさんと、敗北の中から風格を備えた若き王者が、彼だけの王道を突き進む。

 だが、一番多くの支持を受けた本命馬の登場によって熱狂する群衆の中に、わずかな違和感もあった。もうひとつの二番目に多くの支持を受けた馬・・・皐月賞馬はどこにいる?

 頂点への最短の距離を目指して内を衝いたはずのノーリーズンは、タニノギムレットのように馬群を突き抜けるどころか、抜け出す気配すらないまま中団であえいでいた。皐月賞では人気と対照的な横綱競馬で内から突き抜けた彼が、人気を背負ったこの日は内に閉じこもったまま。そして・・・ノーリーズンは、馬群に消えた。

『挫折』

 この日のノーリーズンは、勝ったタニノギムレットから0秒7遅れの8着に敗れ去った。皐月賞、NHKマイルCと悲運に泣き続けたタニノギムレットが最高の舞台で雪辱を果たす一方で、前走では低評価を覆して頂点に駆け上った皐月賞馬は轟沈した。皐月賞馬がダービーに参戦したにも関わらず掲示板にすら載らなかったのは、96年のイシノサンデー(6着)以来という惨敗だった。

 人気馬が惨敗した場合にまずやり玉に挙げられるのは、いつでも騎手の騎乗である。まして、皐月賞以前のノーリーズンは後方ではなく好位からの競馬をしてきた馬だっただけに、

「あのペースであの位置からでは届くはずがない」

と蛯名騎手が批判を受けることは、避けられなかった。

 しかし、蛯名騎手のコメントによると、この日の敗因は

「右回りで外に膨れる面があるので、左にもたれると心配していたが、左回りに替わりモロにもたれてしまった。1周ラチに付きっぱなしだったよ。これでもうすこし外目の枠だったら違っていたけど1枠だったからね。全くレースにならなかった・・・」

ということである。・・・この日の騎乗はかなり不自由な競馬を強いられ、勝負どころで内を衝いたように見えた騎乗も、実は左にもたれて仕方がなかったがためにそうなっただけだったというのである。

 とはいえ、前走のドイル騎手がテン乗りで圧勝したノーリーズンを、二冠のかかった大舞台で沈ませてしまったという事実には何ら変わりがない。蛯名騎手は敗れ、ノーリーズンの二冠は成らなかった。彼らの挑戦は、挫折に終わった。

 悪いことは重なるもので、レースの後になって、ノーリーズンの歩様に乱れが発生した。診察の結果、彼は左第1指骨を骨折していることが判明した。幸いその程度は極めて軽度で、菊花賞への出走も可能とみられたものの、夏は厩舎内での休養を強いられた。こうなると

「ダービーの大敗は、骨折の影響だった」

という声も出て、ノーリーズンの真価が問われるのは、秋以降へと持ち越される結果となった。

『復活の狼煙』

 ノーリーズンは、夏を休養にあてて骨折からの回復を図った。幸い経過は順調で、季節が秋に入ると、ノーリーズンは他の馬とほとんど変わらない調教をこなせるようになり、ダービー直後の診断どおり、菊花賞への出走も十分可能な状態にまで回復していた。

 ノーリーズンの復帰戦は、神戸新聞杯(Gll)に決まった。そして、春のクラシックでさんざん悩まされた彼の鞍上が、このレースではすんなりと決まっていた。・・・彼に騎乗するのは、武豊騎手。それも、神戸新聞杯限りではなく、菊花賞も見据えての騎乗である。

 武騎手がダービーで騎乗したタニノギムレットは、その後に故障を発症して引退を決めていた。このままでは騎乗馬がいない武騎手と、いまだに鞍上を固定できていないノーリーズン陣営の利害が一致して、武騎手とノーリーズンは、こぶし賞以来のコンビを組むことに決まったのである。

 タニノギムレットなき神戸新聞杯では、日本ダービーで2着に入った外国産馬シンボリクリスエスが中心視され(単勝210円、1番人気)、皐月賞馬ながら骨折明けという不安を背負ったノーリーズンは、単勝570円の2番人気にとどまった。ノーリーズンはなぜか2番人気が多く、この日までに走った6戦のうち、2番人気は実に5回目である。

 この日の武騎手が採った作戦は、武騎手が以前騎乗していたデビュー直後の時期と同じ先行策ではなく、ダービーで蛯名騎手が失敗したはずの後方待機策だった。そして、この日のノーリーズンは、後方一気の末脚で、出走馬の中で最速となる上がり3ハロン35秒0の末脚を繰り出して先行馬たちを次々とかわしていった。勝ったシンボリクリスエスに2馬身半及ばぬ2着という結果は、少なくとも陣営やファンの心から骨折明けという不安を払拭するには十分なものだった。

 トライアルレースの神戸新聞杯で復活への確かな手ごたえを得て、ノーリーズンは約1ヶ月後の菊花賞へと駒を進めることになった。

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