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ノーリーズン列伝~Rebel Without a Cause~

『苦難の道』

 菊花賞でまさかの競走中止に終わったノーリーズンは、その後ジャパンC(国際Gl)、有馬記念(Gl)という秋の中長距離路線の王道へと参戦した。菊花賞での衝撃的な敗戦と、それによって失われた信頼は、菊花賞以上の舞台での目に見える結果のみによって贖われる。

 だが、名誉挽回を目指す皐月賞馬の道のりは、非常に険しいものだった。神戸新聞杯、菊花賞とコンビを組んだ武騎手は、他の出走馬と騎乗依頼が重なったために乗り替わりとなり、日本ダービー以来となる蛯名騎手が鞍上に復帰した。・・・だが、単勝1320円の4番人気に推されたジャパンCでは、直線での末脚が不発に終わって8着に沈んだ。続く有馬記念では、2080円の6番人気まで支持を落とし、ここでも直線での伸びが足りず、人気どおりの6着にとどまった。・・・思えば蛯名騎手は、ノーリーズンに3戦騎乗しながら、1度も掲示板に載ることすらなかった。

 2003年に入ってからも、ノーリーズンの苦難は続いた。皐月賞で見せた走りは、どうすれば蘇るのか?ノーリーズン陣営の試行錯誤もむなしく、結果にはつながらない。天皇賞・春(Gl)を春の最大の目標に定め、復活を目指して京都記念(Gll)、阪神大賞典(Gll)に出走したノーリーズンだったが、やはり5着、4着と振るわない。

 最初のうちは、敗れるたびに「理由なき反抗」と言ってもらえたノーリーズンだったが、敗戦が重なるにつれて次第にそう言われることも少なくなり、存在感も薄れていった。

 そして、阪神大賞典の数日後、ノーリーズンは左前脚に浅屈腱炎を発症してしまった。

『忘れられるまで・・・』

 ノーリーズンが発症した屈腱炎の症状は重く、発覚当初は、全治までの期間すら不明と診断されていた。ただでさえ競走能力への影響が大きく再発の危険性も高いとされる屈腱炎で、しかも全治不明というほどの重症であれば、引退という結論になっても不思議はない。・・・いや、走れば走るほどに評価を落としていた近走の結果を受け止めるならば、むしろそれが当然の決断となるはずだった。

 だが、池江師らが出した結論は、引退ではなかった。あくまでも再起を目指し、あるかどうかすら分からない・・・重度の屈腱炎という症状を考えれば、むしろない可能性の方がはるかに高い「復活」への希望を求めて、あくまでも現役生活を続行することになったのである。この時のノーリーズン陣営を支えたものは、おそらく

「このままでは終われない」
「終わりたくない・・・」

という意地と、皐月賞を未踏のレコードで制した誇りだけだった。

 ノーリーズンの闘病生活は、長く続いた。病名と症状を考えれば当然のことであったけれど、馬体をなまらせないように、かといって再発もさせないように細心の注意を払いながら治療を続ける苦労は並大抵のものではない。

 ノーリーズンの療養中も、競馬界の季節は容赦なく流れていく。ノーリーズンが出走を目指していた第127回天皇賞・春(Gl)ではヒシミラクルが前年の菊花賞に続いてGl2勝目を挙げ、その勢いで宝塚記念(Gl)まで制した。そのヒシミラクルが故障で戦列を離れた秋は、シンボリクリスエスが晩成の老雄タップダンスシチーとしのぎを削りながらも2年連続の年度代表馬へと駆け上がり、シンボリクリスエスが功成り名遂げて引退した後となる翌春の第129回天皇賞・春では、2002年クラシック戦線当時は影も形もなく、古馬になってからようやく長距離とダートで頭角を現した形の10番人気のイングランディーレが、前年の二冠馬ネオユニヴァースら「4歳4強」を向こうに回して堂々の7馬身差での逃げ切りを演じた。

 ヒシミラクル、シンボリクリスエス、イングランディーレ・・・同期の馬たちが輝かしい実績をあげてゆく中で、ノーリーズンは、ただ病魔による沈黙を強いられ続けた。

『再び凱歌を聞くことなく・・・』

 ノーリーズンの馬名が馬柱に帰ってきたのは、2004年9月11日の阪神競馬場だった。彼の復帰戦となった朝日CC(Glll)は、前走の阪神大賞典から数えてほぼ1年半が経過し、2年前の皐月賞馬の記憶も、過去のものとなりつつあった。

 朝日CCは、数ある重賞の中でも基幹的なレースとは言い難い。この時も、ノーリーズン以外に2年前の2歳王者エイシンチャンプも出走し、2頭のGl馬が揃ってはいたものの、いずれも近走は振るわず、競馬界での位置づけももはや一線級とは言い難い状態となっていた。

 単勝1440円の4番人気となったノーリーズン、同じく2070円の6番人気となったエイシンチャンプに代わって人気を集めたのは、スズカマンボ、オペラシチーといった3歳馬たちだった。そして、結果も好位から抜け出したスズカマンボが初めての重賞制覇を飾り、ノーリーズンは・・・最下位に沈んだ。

 もっとも、最下位とはいっても、ノーリーズンと勝ったスズカマンボとの差は、わずか0秒6差だった。また、前半の超スローペースに助けられたとはいえ、この日の彼が記録した、上がり3ハロン33秒7という末脚は、今後の可能性につながるものであるかに見えた。・・・そんなノーリーズンの可能性を断ち切ったのは、レース後の屈腱炎の再発だった。

 ノーリーズン、通算成績12戦3勝。15番人気で迎えた皐月賞を大レコードで制覇した異才は、その後のレースで再び輝きを見せることなく、重賞勝ちは皐月賞ひとつだけで、ターフを去っていった。

 種牡馬となったノーリーズンは、05年から優駿スタリオンステーションで供用された。彼が皐月賞で見せたパフォーマンスに加えて、1歳下の半弟グレイトジャーニー(父サンデーサイレンス)がシンザン記念(Glll)、ダービー卿チャレンジトロフィー(Glll)を勝ったことによる血統的な価値の上昇も期待されたが、ふたを開けてみると交配頭数は05年35頭、06年が21頭と今ひとつの数字にとどまった。そして、08年にデビューした初年度産駒が惨憺たる結果に終わると、翌09年の交配頭数はわずか2頭にとどまり、その年を最後に種牡馬生活を打ち切られている。

 種牡馬引退後のノーリーズンは、引退名馬繋養展示事業の対象として、福島県南相馬市で余生を送っている。2011年の東日本大震災で被災し、自主避難をするという不運にも見舞われたが、幸いそれ以上の深刻な影響を受けることもなく、その後は現在まで現地で過ごしており、現地の神事でも活躍しているとのことである。

『人生を再現した馬』

 人気薄の皐月賞をレコードで制し、競馬界に衝撃と衝撃をもたらしたノーリーズンだが、その後は期待どおりの走りを見せることのないまま、競走生活を終えた。皐月賞時の実況からつきまとった「理由なき反抗」という評価を払拭することは、ついにかなわなかったのである。後世の競馬ファンがノーリーズンを評価する場合、それは「皐月賞の一発屋」という域を出ないだろう。

 競馬の歴史の中には、「一発屋」なるがゆえにその名を残した馬が何頭もいる。だが、彼らの位置づけはあくまでも「一発屋」にとどまり、それ以上のものではない。ノーリーズンが歴代の「一発屋」と区別されるとしたら、その1勝によって一度は2002年クラシック戦線、そしていずれは競馬界の頂点に立つことまで現実的なものとして期待されたことであろうが、その期待が大きければ大きいほど、彼の皐月賞以降の戦績から裏切り以外のものを見出すことが難しくなる。1番人気に支持された菊花賞での落馬は、彼の「それから」を象徴する結果であり、今後も彼の背信の象徴として語られている。

 だが、期待を背負った馬が、期待どおりに結果を残すだけが競馬であるならば、我々がこれほど競馬を愛することはなかっただろう。機械ではなく、生物であるサラブレッドが戦う競馬の魅力は、そこにある。予想を覆す快走や、期待を裏切る背信こそが、競馬の愛される理由である。無論、それらが現実となったレースで我々が馬券を買っていた場合、その馬券は紙くずとなる。我々は、時には結果を読み切れなかった己の未熟さを恥じ、時には理不尽な結果を導いた敗者を罵り、さらには勝者の殊勲を理不尽なものとして否定までして、それぞれの無念に打ちひしがれる。だが、我々はその無念をこそ愛しているのではないだろうか。

 映画「理由なき反抗」が描こうとした、若者の行き場のない苛立ちも、我々にとって一度ならず体感したものであろう。我々は、そんな苛立ちの中を生き、思い通りにならなかったいくつもの無念を通り抜けてきた。それらの無念も人生の一部であると理解した時、人はつらい過去をも思い出とすることができる。

 我々がノーリーズンというサラブレッドに反発しながら、同時に魅せられる何かを感じるとすれば、まさにそこなのだろう。

「競馬が人生の縮図なのではない。人生が競馬の縮図なのである」

とは競馬に狂った天才詩人・寺山修司の名言である。ノーリーズンの波乱の馬生とは、多かれ少なかれ、我々が人生で経験するものにほかならない。ノーリーズンが記憶に残るのは、決して理由がないことではない。競馬、そして人生を象徴したサラブレッドの走りがそこにあったことを、我々は知らなければならない。その上でノーリーズンの馬生をもう一度振り返った場合、また違った味わいが見えてくるのではないだろうか・・・。

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