ノーリーズン列伝~Rebel Without a Cause~
『危険な1番人気』
2002年10月20日、京都競馬場で第63回菊花賞が開催される。それは、半年にわたって争われてきた2002年クラシック三冠の最終章である。
だが、この年の菊花賞は、皐月賞、日本ダービーの続きでありながら、春とはその勢力図を大きく変えていた。春のクラシック戦線で常に中心にいたダービー馬・タニノギムレットは故障で既にターフを去り、ダービー2着で神戸新聞杯を勝ったシンボリクリスエスも、天皇賞・秋(Gl)へと向かうために菊花賞を回避した。一部の有力馬が姿を消しても、それに代わる新興勢力が登場していれば帳尻は合うが、この年の出走馬たちを見ると、神戸新聞杯組はもちろんのこと、もうひとつのトライアルレースであるセントライト記念(Gll)組からも、そしてそれ以外の路線からも、そうした存在は現れていなかった。
2002年クラシック三冠の最後の舞台に立つことを許された18頭のサラブレッドたちの中では随一の実績馬となったノーリーズンへの期待は、自ずと高かった。・・・いや、高くならざるを得なかった、と言うべきかもしれない。彼は、皐月賞馬といってもその後の戦績はダービー8着、神戸新聞杯2着というもので、本来「不動の本命」と呼ばれるにはかなり物足りない。しかし、彼以外の有力馬の不在が、相対的に彼の人気を押し上げていた。
菊花賞当日、ノーリーズンは単勝250円の1番人気に支持された。2番人気のアドマイヤマックスが480円、3番人気のメガスターダムと4番人気のローエングリンが910円で並ぶ中でのこの人気は、彼にとって競走馬生活の中で初めての、そして最後の1番人気であった。
『110億円の悲鳴』
やがて時が到り、18頭のサラブレッドたちが次々ゲートへ入り、ノーリーズンもまたゲートへと消えていった。ノーリーズンの手綱をとる武騎手も、手綱から馬の落ち着きを感じていた。前日の土曜日に5勝を挙げ、当日の日曜日に至っては、直前のレースまで9鞍に騎乗して、なんと5勝、2着4回と連対率100%の成績を残していた武騎手は、菊花賞の戴冠、そして二冠制覇の予感すら抱いていた。
スターターが所定の位置につき、2002年クラシックロードの最後を飾るレースの始まりを告げる。ファンは、自らの夢と希望を託した馬たちの健闘を願い、その瞬間を注視した。・・・そんな彼らですら、数秒後にそこで何が起こったのかをたちまち理解することはできなかった。
ゲートが開いた直後に、出走馬の1頭が、突然落馬した。それでも手綱を離さない騎手を引きずるように走り続け、ついにはそれを振り切って馬群の後方を走っていく馬に気づき、スタンドがどよめきに揺れたのは数秒後のことである。振り切られたのは武騎手であり、騎手を乗せずに走っていくカラ馬は、1番人気のノーリーズンであった。
突然の異変にスタンドからは悲鳴があがり、場内は騒然となった。投げ出された武騎手は、なんとか再騎乗しようと思ったというが、馬が先に走り去ってしまってはもうどうしようもない。菊花賞の馬券全体の48.75%にあたるノーリーズンの関連馬券、約110億円が、この時紙屑と化したのである。
『理由なき反抗』
・・・波乱とともに始まった菊花賞は、衝撃とともに幕を下ろす。1番人気がスタート直後に姿を消したこのレースの結末は、10番人気のヒシミラクルが16番人気のファストタテヤマを連れてくるという、スタートにも増して衝撃的なもので、この日記録された馬連96070円は、ノーリーズンが皐月賞で作った馬連のクラシック高配当記録をわずか半年で更新する破格の配当となった。半年前に15番人気で圧勝したノーリーズンが、今度は1番人気での競走中止という逆の形で大波乱に貢献したのである。
レースの後のマスコミの取材も、大波乱の馬券と、主役の落馬に集中した。武騎手は
「(ゲートに)入るまでは落ち着いていたのに・・・。ジャンプして出て、着地の時に滑ってしまった。まさかこんなレースになってしまうなんて残念です、悔いが残ります」
とコメントを残している。なぜこんなことになったのか、誰にも分らない。ただ、皐月賞でノーリーズンがゴールした瞬間の
「『理由なき反抗』とは、呼ばないでくれ!」
という実況がフラッシュバックしたファンは多かったはずである。2002年クラシック戦線の開幕を告げるレースで理不尽なまでの爆走を見せて大穴を演出したのも反抗なら、同じ戦線の最後を飾る大レースでは初めて1番人気に推されながらもそれを数秒で裏切ったのも、形を変えた彼の反抗なのか。そんなノーリーズンの在り方は、まさに「理由なき反抗」だった。