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オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~

『盾へと続く道』

 天皇賞と言えば、日本競馬における古馬の最高峰のレースであることに、おそらく異議は多くないだろう。もっとも、時代や個々の価値観によっては、有馬記念(Gl)やジャパンC(Gl)をより重んじるという価値観も実際に存在するが、この時の隆氏の所有馬には、外国産馬であるがゆえに天皇賞・秋には出走できず、ジャパンCが最大目標となる4歳馬のエルコンドルパサーもいた。

 さらに、こと古い世代のホースマンにとって、「伝統のレース」といえば、古馬の場合は天皇賞のことにほかならなかった。オフサイドトラップを所有する隆氏の父親である喜八郎氏も、天皇賞には特別な思い入れがあったという。喜八郎氏が本業となる運輸会社を創業したのは、1951年のこととされている。戦争を直接経験し、戦後の焼け野原を出発点として、混乱期に苦労しながら事業を成功させた創業者世代にとって、昭和天皇のイメージと重なる「天皇賞」は、特別な重みを持っていた。

 そんな喜八郎氏が、かつて天皇賞に大きく近づいたことがある。1977年に菊花賞(Gl)を制したプレストウコウが、翌78年に古馬中長距離戦線へと挑み、当時は春秋とも3200mの距離で行われていた天皇賞に、いずれも出走したのである。しかも、この時の春はオープン戦、秋は毎日王冠と直前のレースを勝って本番へと駒を進め、人気もそれぞれ2番人気、4番人気に推された争覇圏内だった。

 しかし、喜八郎氏の夢は、かなわなかった。まず、天皇賞・春でのプレストウコウは、中団につけた1週目の下り坂で突然謎の後退を始め、場内を騒然とさせた。

 ・・・真相は、郷原洋行騎手が通常使用している鞍を忘れたために慣れない鞍を使った影響で、鞍ずれを起こしたというものだった。幸い、人馬とも事故はなかったものの、そのまま競走中止となったプレストウコウは、TTG世代の最後の生き残りであるグリーングラスにその名を成さしめる結果となった。

 しかも、雪辱を期した天皇賞・秋でのプレストウコウは、さらなる悲運に泣かされた。プレストウコウ自身は好スタートを切ったものの、出走馬のうち1頭のゲートが開かなかったため、カンパイ(レースのやり直し)となってしまったのである。おかげで2度目のスタートを強いられたプレストウコウは、精神的に高ぶりすぎてしまっていた。スタートの後しばらくは好位につけたものの、東京コース1週目のスタンド前の歓声で完全にかかって、強引に先頭を奪ってしまった。そんな荒れた展開でも、直線では懸命に粘ったプレストウコウだったが、最後には、菊花賞ではゴール直前に差し切ったテンメイに、逆に差し切られて2着に敗れている。

 後世に「マルゼンスキーに7馬身ぶっちぎられた菊花賞馬」という印象を残すプレストウコウだが、ぶっちぎられた日本短波賞は菊花賞前で、まだ本格化する前の段階である。プレストウコウが菊花賞を勝った後の戦績は8戦2勝だが、天皇賞・春の競走中止と78年有馬記念の12着を除くと、すべて掲示板に載っている。この馬に足りなかったものがあるとすれば、それは実力ではなく運であり、特に2度の天皇賞は、いずれも尋常ではない悲運に見舞われての敗北と言わなければならない。悔いは残っても、負けは負けである。

 その後、喜八郎氏が天皇賞制覇を夢見ることができる所有馬は、なかなか現れなかった。だからこそ、オフサイドトラップで、最後になるかもしれない夢を見たかった。

 もともとオフサイドトラップの血統の基礎を築いた父親の思いに対し、隆氏が無関心でいられるわけもない。秋のオフサイドトラップの目標は天皇賞・秋に置かれた。道は、定まったのである。

『前哨戦』

 当初、オフサイドトラップのローテーションについて毎日王冠への出走の可能性を口にしていた加藤師だったが、その後、天皇賞・秋へと直行することになった。

 この年の毎日王冠には、馬主は同じながら二ノ宮敬宇厩舎に所属するエルコンドルパサーが出走予定だという事情もあった。別の選択肢としては同日開催の京都大賞典もあるが、これだと天皇賞・秋本番の東京2000mとはかなり条件が異なる京都2400mのレースになるため、前提条件がかなり異なってくる。

 8歳で屈腱炎の既往歴まであるオフサイドトラップは、体調の調整のためだけに本番と全く異なるレースに出走させるには、リスクが高すぎる。ステップレースを使った結果として、本来の目標である天皇賞・秋以前に消耗してしまったり、ましてや出走できなくなったりしたならば、もはや何のためのステップレースなのか分からない。

 天皇賞・秋へ向けた各ステップレースからは、まずオールカマーから、新鋭ダイワテキサスが5連勝(うち重賞2勝)で名乗りをあげた。

 京都大賞典からは、わずか7頭立てながら、天皇賞・春を制したメジロブライト、前年の有馬記念の覇者シルクジャスティス、その年の天皇賞・春と前走の宝塚記念で連続2着のステイゴールドらを抑え、天皇賞・秋ではなく菊花賞を目指すと表明したセイウンスカイが鮮やかな逃げ切り勝ちを収め、ここから天皇賞・秋を目指す有力馬たちにとっては不安と不満を残す結果となった。  オフサイドトラップが出走を見送った毎日王冠では、隆氏の所有馬で、無敗のままNHKマイルC(Gl)を制したエルコンドルパサー、さらには前年無敗で朝日杯3歳S(Gl)を制しながら、骨折の悲運に泣いて春は全休し、復帰戦として挑んできたグラスワンダーがいずれも敗れ、勝ち馬が天皇賞・秋に向けて大本命の地位を確固たるものとした。・・・第118回天皇賞・秋に向けて、競馬界の風雲は、確かに立ち上りつつあった。

『ドミノのように』

 もっとも、オフサイドトラップ陣営は、天皇賞・秋へ直行するゆえに、この時期には何もなかったのかというと、そうは問屋が卸さなかった。

 七夕賞で乗り替わった途端に重賞2連勝を飾った蛯名騎手が、オフサイドトラップの覚醒へ寄与するところが大きかったことは、誰もが認めるところである。しかし、その蛯名騎手が、天皇賞・秋ではダイワテキサスからの騎乗依頼を受けたため、オフサイドトラップに騎乗できないというのである。

 そこで加藤師が白羽の矢を立てたのは、柴田善臣騎手だった。柴田騎手も前年の97年に初めて年間100勝を挙げるなど、蛯名騎手と比較しても遜色ない実績を持っていた。しかも、これといったお手馬は、天皇賞・秋にはエントリーしていない。

 もっとも、柴田騎手にとって、オフサイドトラップはまったく白紙の馬・・・というわけではなかった。実は、柴田騎手は、オフサイドトラップが最後に戦線離脱する直前の96年暮れから97年前半にかけ、ディスセンバーS、AJCC、中山記念、エプソムCで、当時上がり馬として注目を集めていたキングオブダイヤの騎手として、オフサイドトラップと戦っていた。この4つのレースではすべてキングオブダイヤが先着してはいたものの、確実に伸びて惜しいところまで持ってくるオフサイドトラップについて、柴田騎手は、その強さを印象に残していた。だからこそ、騎乗機会すらないと思っていた大舞台に降ってわいた依頼を受け、燃えた。

 実は、その後、オールカマーを勝ったダイワテキサスが故障して天皇賞・秋を回避することになったため、蛯名騎手の手が空いた。しかし、加藤師は

「天皇賞・秋はもう柴田騎手に依頼したのだから」 ということで、柴田騎手に引き続き騎乗を依頼することになったため、蛯名騎手はステイゴールドの騎乗依頼を受けることになった。刻一刻と入れ替わる騎手たちの動向は、各陣営が盾に向けた思惑と駆け引きの表れでもあった。

 この秋には、オフサイドトラップと同世代の三冠馬ナリタブライアンの訃報も流れている。かつて彼のライバル・・・とすら呼べない遥か先で栄光をほしいままにした名馬が、その生涯すら駆け抜けてしまった一方で、オフサイドトラップの戦いは、まだ続いていた。

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