レッツゴーターキン列伝~煌めく殊勲の向こう側~
『報われぬ連勝』
5歳になってからのレッツゴーターキンは、地方のローカル開催を中心に出走し、各地を転戦するようになった。
5歳緒戦として京都の斑鳩S(準OP)に使うはずだったレッツゴーターキンだったが、たまたま登録していた小倉大賞典(Glll)のハンデが53kgと予想以上に軽かったことから、
「これなら勝負になるかも・・・」
ということで、急遽こちらに出走することになった。
すると、突然の西下にも関わらず、レッツゴーターキンは強かった。第2コーナーでは最後方にいながら、向こう正面で一気に上がっていくと、3コーナー地点で3番手まで進出、直線では1番人気のメインキャスターとの叩き合いに持ち込んでこれを退け、重賞初勝利をあげたのである。橋口師、小島貞博騎手らも、期待していなかっただけに喜びはひとしおだった。
・・・ただ、勝因については、
「(メインキャスターに詰め寄られたことについて)ハンデの差がきいたようですね」(橋口師)
「(勝因は)ハンデに恵まれたことでしょう」(小島騎手)
と、ウマよりハンデに勝因を求めていた。
それでも、続く中京記念(Glll)で、59kgを背負った阪神3歳S(Gl)馬ラッキーゲランを半馬身抑えて重賞2連勝を飾ると、さすがに周囲の見る目も変わってきた。この日も彼自身のハンデは55kgと、前走で重賞を勝っている割には恵まれていたことは確かだが、それでも重賞2連勝は、並の馬にできることではない・・・はずだった。
しかし、その後のレッツゴーターキンは、掲示板にもろくに載れない惨敗が続き、元の木阿弥・・・というよりも、それ以前の段階に逆戻りしてしまった。ローカルの重賞やオープンを走っても、さすがに重賞を連勝すると重い斤量を背負わされるようになり、そのとたんに成績も急降下した。勝てば勝つほど斤量が重くなるのはハンデ戦の宿命だが、これでは
「重賞2連勝も、軽いハンデを生かしての勝利にすぎなかった」
と言われてしまっても仕方がない。結局、彼の重賞2連勝の実績は、額面通りには受け取ってもらえず、5歳時にそれ以上勝利数を上積みすることもできなかった。レッツゴーターキンの評価も、良くて「たまにローカルで好走する馬」、悪い方では「一時確変したけれど、もう終わった馬」といったあたりに落ち着いていった。
『地獄を見た男』
6歳になってからも相変わらず不振が続いたレッツゴーターキンだったが、新潟に遠征した彼は、そこでようやく復活の兆しを見せた。谷川岳S(OP)に出走したレッツゴーターキンは、そこで実に1年1ヶ月ぶりの勝利をもぎ取ったのである。レッツゴーターキンに復活のきっかけを与えたもの、それはある男・・・かつて地獄を見た騎手との出会いだった。
大崎昭一・・・それが、レッツゴーターキンが新潟で出会った男の名前である。大崎騎手は、当時既に47歳を迎え、騎手の中でも指折りの大ベテランとなっていた。そんな彼の大レースでの実績は、一流騎手として十分誇るに値するものである。大崎騎手は、1969年のダイシンボルガード、81年のカツトップエースで日本ダービーを2勝、67年のカブトシロー、79年のグリーングラスで有馬記念を2勝し、さらに天皇賞も、75年秋にフジノパーシアで勝っている。「泣きの昭ちゃん」の愛称で親しまれた彼は、確かに関東の一流騎手であり、日本の騎手界を代表するスター騎手にふさわしい活躍をしていた。
ところが、そんな大崎騎手の運命は、1985年8月を最後に暗転した。大崎騎手は、この時新潟競馬場でたいへんな「事件」を起こしてしまったのである。そのことをきっかけに、大崎騎手の運命は暗転し、その後の人生には暗い影が落ちることになる。
1985年8月25日、第2回新潟競馬6日目第9レース、赤倉特別。レース前に馬が外ラチ沿いへ寄っていった時、大崎騎手に1人のファンが声をかけ、大崎騎手もそれに返事をした。・・・そのひとことが運命の分かれ道だった。
『事件』
数日後のスポーツ紙に踊ったのは、「大崎不正行為」「騎乗停止処分」というショッキングな見出しだった。大崎騎手は、外ラチ沿いで声をかけられて返事をしたことで、
「特定のファンに対して馬の調子を教えた」
という疑惑を持たれ、「公正競馬に反する」と問題にされたのである。
この事件についての大崎騎手の言い分は、
「馬の調子はどうだ?」
と聞かれ、反射的に
「いいよ」
と答えた、というものだった。しかし、周囲は必ずしもそうは見てくれなかった。それどころか、一部では
「金の動きがあったのではないか・・・」
「予想だけでなく、八百長もしていたのではないか・・・」
という何の証拠もない憶測が乱れ飛び、大崎騎手の名誉を失墜させた。この事件を理由として大崎騎手に課せられた処分が4ヶ月間の騎乗停止処分という極めて重いものだったことも、そうした憶測に輪をかけた。・・・そして、時を同じくして、ある週刊誌で大崎騎手の暴力団員との交際疑惑が報じられた。記事自体は出所すらはっきりしない記事であり、こんな時期でさえなければ、あふれる情報の波の向こう側へとたちまち消えていくようなものにすぎなかったが、「不正行為をはたらいて4ヶ月間もの騎乗停止処分を受けた」ということで、既にうさんくさい目で見られるようになっていた1人の騎手に、とどめを刺すには十分なものだった。
それまで大崎騎手を取り囲み、ちやほやしていた人々は、潮が引くように彼のまわりから離れていった。気がつくと、かつて彼を取り巻いていた人々の姿は消え、さらに彼に騎乗を依頼しようという調教師も、ほとんどいなくなっていた。
・・・この時のことについて、大崎騎手は多くを語らない。ただ、後にこの事件を振り返った彼は、
「あの時、俺は死んだんだ」
と述懐している。このひとことが、この事件で彼が失ったものの重みを感じさせてくれる。
『大崎昭一に1000勝させる会』
この事件の後、大崎騎手の本拠地である関東の調教師たちからは、大崎騎手への騎乗依頼が急速に減っていった。馬に乗れない騎手が騎手を続けることはできない。こうして大崎騎手の騎手生命は風前の灯となったが、そんな苦境にあっても、すべての人々が大崎騎手を見捨てたわけではなかった。彼を救ったのは、関西を本拠地とする何人かの若手調教師たちだった。
「大崎の処分はおかしいんじゃないか」
「いくらなんでも、4ヶ月の騎乗停止は重すぎる・・・」
大崎騎手が何をしたのか。その内容は、4ヶ月の騎乗停止処分という重い処分に見合ったものだったのか。・・・そんな基本的な部分さえもはっきりしないままに決まってしまった処分に対しては、当時から疑問の声も少なくなく、関東に比べて自主の機運が強いとされる関西では、特にその傾向が強かった。
大崎騎手に対する処分に疑問を抱き、大崎騎手に同情した調教師たちの一部は、本拠地の関東でほとんど騎乗機会がなくなった大崎騎手のため、自分たちの厩舎の馬の騎乗を依頼するようになった。この動きには、一流騎手とのつながりが薄い若手調教師たちが、技術を持った騎手を確保するための動き、という側面もあったかもしれない。しかし、調教師たちが大崎騎手を信じてその再起を願い、大崎騎手もまた、彼らの助けによって引退の危機を免れることができたことは間違いない事実である。1986年以降の大崎騎手は、関東に本拠地を置きながら、その勝ち星のほとんどを関西馬で挙げるようになっていった。
大崎騎手を支援する調教師たちは、一部で「大崎昭一に1000勝させる会」と呼ばれるようになった。それまでに通算631勝を挙げていた大崎騎手だったが、新潟での事件のせいで、騎手を引退した後に調教師になることは絶望視されていた。そんな大崎騎手を競馬界に残すため、事実上無試験で調教師になることができる特典を伴う1000勝を挙げさせてやりたい・・・。そんな思いを共有する調教師たちの中に、レッツゴーターキンを管理する橋口師も含まれていた。