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レッツゴーターキン列伝~煌めく殊勲の向こう側~

『いぶし銀の一世一代』

 レッツゴーターキンは、ダイタクヘリオスとメジロパーマーが刻んだ狂気のハイペースに惑わされることなく、折り合いもしっかりとついたまま、直線まで後方に控えて脚をためていた。そして、先行馬たちが総崩れになる中で、彼の末脚は最大限の破壊力を発揮したのである。

 レッツゴーターキンの末脚は、直線で炸裂した。後方待機を決め込んだ橋口師と大崎騎手の作戦が、ピタリとはまった形である。もっとも、騎手も調教師もここまでのハイペースを予想してはいなかっただろうが、このハズレは、レッツゴーターキンにとってむしろ好都合なものだった。

 失速するトウカイテイオー、ダイタクヘリオスをかわしたレッツゴーターキンは、残り100mで突き抜けた。第4コーナーでは馬が後ろに4頭しかいなかったレッツゴーターキンが、その数十秒後には先頭でゴール板を駆け抜けていた。

 ちなみに、この日2着に来たのはムービースターである。ムービースターも、第4コーナーではレッツゴーターキンよりさらに後ろに控えていたが、そこから素晴らしい末脚を繰り出していた。

「やった、と思ったんですけどね。もう1頭いるとは・・・」

 そう漏らしたのは、ムービースターに騎乗していた武豊騎手である。ゴールの瞬間、レッツゴーターキンは、ムービースターの1馬身半前にいた。

 単勝11番人気のレッツゴーターキンと単勝5番人気のムービースターの組み合わせは、馬連17220円の万馬券となった。1番人気のトウカイテイオーは7着に敗れ、この日のハイペースを作りあげたダイタクヘリオスは8着、メジロパーマーに至っては17着に沈む大波乱での決着となった。レッツゴーターキンが記録した1分58秒6という勝ちタイムは、天皇賞・秋のレコードと0秒4違いの優秀なものだった。しかし、上がり3ハロンの数字を見ると、37秒8となんともひどい数字である。これらの数字もまた、第106回天皇賞・秋というレースを顕著に物語っている。

 この日の展開を見切った上で、レッツゴーターキンの実力を最大限引き出した老練のベテラン・大崎騎手にとって、この日の勝利は1981年のカツトップエースでの皐月賞と日本ダービー逃げ切り以来、11年ぶりのGl(級)制覇となった。それまでローカルを回りながらこつこつと賞金を稼いできた馬と、日本ダービー、有馬記念2勝ずつ等の輝かしい実績を持ちながら、その後地獄を見てきた男のコンビが、互いの能力を最大限に引き出しあった末で見せた、一世一代の追い込み劇だった。

『歓喜の光景』

 予期しない勝利を手にしたレッツゴーターキン陣営は、凄まじい歓喜に沸いた。橋口師は

「天皇賞をこんな絶妙の騎乗で勝ってくれるなんて・・・」

と感激を隠さなかった。Gl初勝利を手にした橋口師は、レッツゴーターキンが先頭に立った時からは大騒ぎだったという。・・・大崎騎手は、見事に橋口師の期待に応えたのである。

 ・・・もっとも、レッツゴーターキンの天皇賞制覇に驚き、喜んだのは彼らだけではない。レッツゴーターキンの生まれ故郷である社台ファーム空港牧場のスタッフたちも、この日の結果には大騒ぎになった。

「『オチコボレ』が『シュッセガシラ』になったぞ」

 ・・・かつてレッツゴーターキンに散々手を焼かされた場長たちは、そう喜びあい、勢いあまってビールかけをした。ちなみに、この時彼らは、レッツゴーターキンから

「これからはどんな馬が来たって、諦めちゃいかん」

ということを学んだそうである。

『嗚呼、天皇賞馬』

 ・・・しかし、6歳にして天皇賞・秋を制し、1992年秋の中距離王の地位を手にしたはずのレッツゴーターキンに対する競馬界の扱いは、決してよいものではなかった。悲しいかなレッツゴーターキンの実力、そして彼自身に対する評価は、天皇賞・秋の勝利によっても、全くといっていいほど上向くことがなかったのである。

 18頭立て11番人気の天皇賞・秋を制したレッツゴーターキンだったが、次走のジャパンC(国際Gl)、次々走の有馬記念(Gl)とも、彼の単勝はそれぞれ11番人気、10番人気にとどまった。ファンは、レッツゴーターキンの一世一代の大仕事である天皇賞・秋を、単なるフロックとみなしたのである。上がらぬ人気は、彼の地位を象徴していた。有馬記念でもメジロパーマーの4着に入ったものの、焼け石に水である。結局レッツゴーターキンは、7歳になってからは阪神大賞典を1戦しただけで引退し、種牡馬入りすることになった。

 長い旅路の果てにようやく栄光を手にしたレッツゴーターキンだが、その栄光の向こう側に待っていたのは、厳しい現実だった。ターゴワイスが日本で出したGl馬は、レッツゴーターキンただ1頭である。米国で一世を風靡した名馬ラウンドテーブルの直系にあたるレッツゴーターキンの血統は、希少価値という面からも価値があるはずだったが、天皇賞・秋の一発屋というイメージは、彼の種牡馬生活にもつきまとい、暗い影を落とした。

 レッツゴーターキンは、種牡馬入りした年には、繁殖牝馬の質はお世辞にも高いとはいえないながら、何とか25頭の種付けを確保した。・・・しかし、それだけだった。高くない人気は、落ち込むのも早い。次の年から種付け頭数は早くも一桁になり、落ち込んだ人気はその後回復することもなかった。レッツゴーターキンは、やがてプレクラスニーと並んで、不遇の内国産天皇賞馬の代表例となってしまった。

 1990年代以降、北海道の生産牧場は構造不況の直撃を受け、おまけに外国産馬の大攻勢もあって、経営者の冬の時代へと入っていった。種牡馬レッツゴーターキンも、やがて種付けがなくなって最初の繋養先を出され、何処かへと消えていった。種牡馬登録こそ抹消されていないものの、その行き先は杳として知れず、様々な憶測が飛びかった。

『牛の牧場にて』

 一度消息が途絶えたレッツゴーターキンの行方が知れたのは、ある競馬雑誌の取材によってだった。その雑誌が内国産Gl馬たちの近況を伝える特集を組んだ際にレッツゴーターキンを発見し、その現況を世に伝えたのである。レッツゴーターキンは、「牛の牧場」にいた。

 北海道の牧場といっても、馬の牧場ばかりではない。レッツゴーターキンは、牛の飼育をメインとする牧場に引き取られ、牛たちと一緒に放牧されていたという。レッツゴーターキンがどのような経緯を経て牛の牧場に辿り着いたのか、その雑誌は詳しく語っていない。

 しかし、取材に際して牛の牧場で繰り広げられたという光景は、非常に印象的である。レッツゴーターキンの写真を撮ろうとした記者に対し、牧場の人たちは

「やめて下さい!」

と強い口調で止めたという。

「天皇賞馬が牛と一緒にいる写真なんて、あんまりだ」

と・・・。

 レッツゴーターキンの行方については、種牡馬登録が抹消されていなかったことから、最悪の道だけは辿っていないのではないか・・・という希望的観測もなされていた。しかし、人気が思わしくない種牡馬の中には、登録の抹消すらされないうちに行方不明となり、闇に消えていく者も少なくない。そんな中で、レッツゴーターキンは、純粋に彼を愛する人によってその命を救われたようである。ちなみに、その牧場がレッツゴーターキンを引き取った理由については、牧場主がレッツゴーターキンと大崎騎手のファンだったからである、と伝えられている。

『煌く殊勲の向こう側』

  こうして再び消息が判明した後は、レッツゴーターキンの血を求める牧場も、ごく少ない数ながら現れたようで、1998年の種付け頭数は7頭まで回復した。もっとも、この程度の頭数から世間の注目を集める名馬が誕生することは、期待薄である。種牡馬がいったん落ち込んだ人気を回復する手段は、産駒の活躍をおいて他になく、種付けの少なさは、そのまま人気回復の手段と可能性が乏しいことを意味する。結局、レッツゴーターキンが2010年1月30日に死亡するまで、その産駒から中央競馬での勝ち馬が現れることはなかったようである。

 レッツゴーターキンだけでなく、彼とコンビを組んだ大崎騎手も、栄光の季節の後に秋風をその身に感じることとなった。天皇賞・秋の記憶もあって、1995年頃までは乗り鞍を集めていた大崎騎手だったが、それ以降は乗り鞍が減少していった。ちょうどこの時期、「大崎昭一を1000勝させる会」といわれた調教師たちの厩舎が次々と若い所属騎手を預けられる立場となり、大崎騎手への依頼を所属騎手に回さざるを得なくなったことも影響していた。

 1998年に病気で倒れた大崎騎手は、復帰を目指したもののかなわず、99年に入って間もなく引退を表明した。54歳と現役最年長騎手となってなお騎手生活を続けた大崎騎手だが、通算勝利は970勝で、目標とした1000勝にはわずかに届かないままにステッキを置くことになった。結局大崎騎手は、調教師になることはなく、競馬評論家として予想などに関わっていたが、JRAとの関係は改善されず、息子が調教師になる際には迷惑をかけないよう一時距離を置くようになった、という悲しいエピソードも伝えられている。競馬を取り巻く環境の変化によって、この頃には有力騎手がスポーツ紙等と契約をかわし、「今週の騎乗馬」などとして、自分の騎乗予定馬の状態を伝えることが公然と認められるようになっていたことを考えると、大崎騎手が新潟で失ったものの重みに、運命の儚さを嘆じずにはいられない。

 レッツゴーターキン、大崎騎手・・・第106回天皇賞・秋でトウカイテイオー以下を破り、11番人気を覆す大殊勲を挙げた彼らだが、その殊勲の向こう側にはさらなる人生と馬生の旅路が待っていた。それもまた、運命かもしれない。しかし、だからといって、風雪を経てたどり着いた彼らの最後の栄光を、私たちが過小評価したり、忘れ去ってしまったりすることがあってはならない。煌く殊勲の向こう側・・・その世界は、レッツゴーターキンと大崎騎手だけでなく、Glを勝ったサラブレッドと競馬関係者たちは、生ある限り歩むことを避けられない道なのだから。サラブレッドとホースマンの生き方を考えるならば、運命に翻弄された彼らの生き様を語り継ぐことは私たちの義務であるといっても過言ではないだろう―。

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