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ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~

『頂を極めて』

 ミスターシービーで見事三冠を制して凱旋した吉永騎手は、たちまち記者たちに取り囲まれ、取材攻めにあった。

「今日のがレースとしては一番でしたね。今までで一番楽だったですから・・・」

 吉永騎手は静かに、しかしはっきりとそう言い切った。馬の予想外の「仕掛け」に戸惑った吉永騎手ではあったが、その後の手ごたえは抜群であり、第4コーナーでは既に勝利を確信していたという。そして実際にミスターシービーは先頭でゴールを駆け抜けたわけだが、この時の吉永騎手の姿には、ひとつの大きな責任を果たした者だけが持つ充足感があった。

 ミスターシービーがこの日打ち砕いたのは、競馬界の常識や京都競馬場のセオリーだけではなかった。ダービーに続いてファンの固定観念を破壊し、そしてこの日初めて、第3コーナー付近からのまくりという勝ちパターンを崩したことで、自らの常識までも打ち砕いたのである。競馬界は、あらゆる常識という常識をことごとく打ち破ってついに三冠馬の地位まで登りつめたミスターシービーに酔い、彼に魅せられた人々が奏でる声は、ミスターシービー賛歌一色となった。

 もっとも、この日の勝ち方にもいくばくかの危うさを感じる人もいないではなかったが、大多数はその危うさを危うさと認めず、あるいはその危うさこそがミスターシービーの魅力であるとして、そんな懸念は一笑に付された。実際、この時のミスターシービーは、いかなる不安や懸念も正面からはねのける、それだけの実績と内容を積み重ねていた。この懸念が現実のものであると気づかれるまでには、まだ長い時間が必要だった。

『日本で一番強い馬』

 こうして菊花賞を制してシンザン以来の三冠馬となったミスターシービーは、その後

「将来のある馬だから、4歳のうちから無理をさせたくない」

というオーナーサイドからの要望もあって、ジャパンC、有馬記念には出走せず、そのまま休養に入ることになった。しかし、ミスターシービー陣営のこの決断は、後に思わぬところで騒動を引き起こす一因となった。

 菊花賞の後、日本には多くの欧米の競馬ジャーナリストたちが降り立った。菊花賞の2週間後に行われるジャパンCを取材するためである。しかし、彼らの関心はこれから行われるジャパンCよりも、既に終わったはずの菊花賞に集中した。彼らの関心の的は菊花賞というレースそのものよりも、その勝ち馬であるミスターシービーのことだった。

 日本で19年ぶりに三冠馬が誕生したと聞いた彼らは大いに驚き、どのような馬なのかを知りたがった。その中でも熱心な者はビデオを見せてもらい、あまりの無茶苦茶なレースにあきれ返った。

 特に英国では、1970年にニジンスキーが2000ギニー、英国ダービー、セントレジャーの英国三冠を制して以来、三冠馬は出現していない。それどころか、このころは既に馬の距離適性による限界が意識され、あらゆる距離での万能性を競う英国三冠は完全に形骸化しつつあった。ところが日本では、英国人が近代競馬では超えることなどできるはずがないと思っていた距離の壁をいとも簡単にぶち破り、2000m、2400m、3000mという距離をすべて制した三冠馬が出現したという。本場で過去の遺物となりつつある「三冠馬」は、見る人を惹きつけずにはおかないとんでもない追い込み馬で、日本のファンを虜にしている。彼らが望むのは

「Mr.CBをぜひこの目で見てみたい!」

という一点だった。

 ところが、彼らはすぐに落胆することになった。彼らが見たいと望んだミスターシービーは、今年のジャパンCには出走しないという。彼らは大いに残念がったが、中には残念がるだけでは済ませられない記者も現れた。

 ジャパンC直前の合同記者会見の時、外国記者の一人からこんな質問がとんだ。

「日本は我々にいつもジャパンCに強い馬をつれて来いという。しかし、日本で一番強いトリプルクラウンホースはなぜ出てこないのか。それでは我々に対して失礼というものではないか」

 この質問にカチンときたのは、1ヶ月前に天皇賞・秋を制したばかりのキョウエイプロミスで日本馬初制覇を狙う高松邦男調教師だった。彼はこの質問を「非礼」と怒り、

「だから、日本で一番強い天皇賞馬が、皆さんのお相手をするのです」

とたんかをきった。

 高松師の意地を背負ってジャパンCに出走した「自称・日本で一番強い馬」キョウエイプロミスは、競走生命を捨てての激走によってスタネーラとの大接戦に持ち込んだものの、惜しくも僅差の2着に敗れた。「日本で一番強い馬」と大見得を切った面目は保ったものの、悲願の日本勢初優勝には至らなかった。高松師は悔しがったが、

「ミスターシービーがいれば・・・」

という声があがったのも無理からぬことではあった。

『黄金世代の三冠馬』

 ジャパンCに続いてミスターシービー不在で行われた有馬記念は、ミスターシービーの欠場により、天皇賞、有馬記念を勝ったアンバーシャダイ、やはり天皇賞馬のメジロティターン、宝塚記念馬ハギノカムイオーといった一線級を揃えた古馬陣営が優勢であると思われていた。天皇賞・秋を勝ちながら、ジャパンCのレース中の故障で競走生命を失ったキョウエイプロミスこそ欠くものの、それを除けば、ここに顔を並べた古馬たちは、古馬陣営のほぼオールスターといってよかった。

 ところが、ふたを開けてみると、勝ったのは菊花賞でミスターシービーの4着に敗れたリードホーユーで、2着も同じ4歳馬のテュデナムキングだった。4歳馬のワン・ツーフィニッシュで決着し、強いはずの古馬たちは、大将格のアンバーシャダイが3着に食い込むことがやっとだった。

 リードホーユーとテュデナムキングといえば、4歳世代の頂点に位置するミスターシービーからはかなり離された存在というのが、衆目の一致したところだった。リードホーユーは、京都新聞杯でミスターシービーに先着した経験こそあるものの、菊花賞ではまったく相手にしてもらえなかったし、またテュデナムキングにいたっては、クラシックの舞台に立つどころか、条件戦でこつこつと稼ぐ道を選んでここまで来た馬であり、有馬記念に出走することが決まったときには、首をひねったファンも多かったほどである。そんな2頭の4歳馬が、トップクラスの古馬たちをいとも簡単に打ち負かしたという事実は、4歳世代が5歳以上の世代と比べてレベルの高い世代であることの何よりの証明だった。

 こうして4歳世代の評価が高まるに連れて浮き彫りになってくるのは、その高いレベルの世代の中で三冠レースのすべてを制し、世代の頂点に立ったミスターシービーの存在感である。そこにいたらいたで、いなくてもいないで、ミスターシービーへの評価は、ますます高まっていった。

 折しもミスターシービーが古馬になる1984年は、中央競馬にグレード制が導入され、番組の大改革が行われることになっていた。東京3200mで行われていた天皇賞・秋が東京2000mに変更になるなど現在の番組の基礎ともいえる形が出来上がったこの時の改革は、現代競馬の幕開けを告げるものだった。そんな時代の境目に現れた三冠馬は、まさに新時代の担い手にふさわしい存在として、競馬を愛する人々の熱い期待を一身に集めることとなった。

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