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1991年牝馬三冠勝ち馬列伝~彼女たちの祭典~

~リンデンリリー~
 1988年3月16日生。牝。栗毛。向別牧場(浦河)産。
 父ミルジョージ、母ラドンナリリー(母父キタノカチドキ)。野元昭厩舎(栗東)。
 通算成績は、7戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、エリザベス女王杯(Gl)、ローズS(Gll)。

その3 =リンデンリリーの章=

『谷間のユリ』

 リンデンリリーは、オークス馬イソノルーブルから遅れることわずかに3日、1988年3月16日に浦河の向別牧場で生まれた。

 リンデンリリーの母であるラドンナリリーは、現役時代は南関東競馬で走って7戦2勝という戦績を残した。その2勝のうち1つは東京3歳優駿牝馬(年齢は当時の数え年表記)優勝である。血統的にも、早世した二冠馬キタノカチドキの直子であり、成長が期待されていたラドンナリリーだったが、骨折によって4歳を迎えることさえないままに、競走生活の可能性を断たれてしまった。向別牧場の人々は、競走馬としては花開くことのなかった彼女の可能性を子孫に伝えるべく、彼女を期待の繁殖牝馬として牧場へ迎えたのである。

 しかし、ラドンナリリーの子、つまりリンデンリリーの兄たちは、なかなか期待通りの成績を残すことができなかった。彼女の子供たちは脚が長すぎて、身体のバランスが悪い子ばかりだったのである。その欠陥さえなければ走りそうな子ばかりだっただけに、向別牧場の人々は諦めがつかず、がっかりさせられどおしだった。しかし、未来は落胆ではなく反省の中からのみつかむことができる。彼らがその結果を踏まえてラドンナリリーの交配相手に選んだのは、ミルジョージだった。

『反省は成功のもと』

 ミルジョージ産駒の初期の代表産駒をみると、ロッキータイガー、イナリワンといったあたりはみな足長の体型である。つまり、ミルジョージ産駒は脚が長い子の方がよく走るという特色があった。ラドンナリリーの特色である産駒の脚の長さとミルジョージの血が持つ底力とが融合すれば、良い結果が出るのではないか。ラドンナリリーにミルジョージを交配したことの背景には、このような狙いがあった。

 ミルジョージとラドンナリリーとの間で最初に産まれたマキシムポイントは、兄たちと同じように脚が長く生まれたものの、この馬はミルジョージの子らしくよく走り、引退までに4勝をあげた。マキシムポイントの出来が良かったことから、気をよくして次の年にもう一度ミルジョージをつけて生まれたのが、リンデンリリーだった。

 こうして生まれたリンデンリリーは、牧場の人々の狙いどおり、兄と同じくよく走るミルジョージ産駒の特徴である脚の長さを備え、さらにミルジョージ産駒としては素直な気性を持っていた。評判馬となったリンデンリリーは当歳のセリ市に出され、そこで1000万円という値がついた。同じ市場取引馬でも、2歳になってから、それも最低売却価格の500万円でやっと売れたイソノルーブルとはかなり違った、恵まれたスタートだった。

『認められざる器』

 リンデンリリーは、栗東の野元昭厩舎へと入厩することになった。リンデンリリーは調教が進むにつれて、かつて母親のラドンナリリーがそうだったように、素晴らしい瞬発力を持っていることが分かってきた。野元師らがリンデンリリーに寄せる期待も、ひそかに高まっていった。

 しかし、セリで早めによい値がついたり、調教でいい動きを見せたとしても、それが一般のファンにまで評価されるとは限らない。リンデンリリーの馬名は冠名の「リンデン」に「ユリ」という意味であり、母の名の一部でもあった「リリー」をつけたものである。咲く地方の大種牡馬と地方競馬の実績馬との間に生まれた谷間のユリへの期待は、玄人には受けても、素人にあまねく理解できるものではなかった。リンデンリリーのデビューは12月の京都開催となったが、12頭だての9番人気という人気は、この時期リンデンリリーが一般のファンに知られた存在ではなかったことを雄弁に物語っている。

 リンデンリリーは、デビュー戦となったダートの新馬戦で、後続に5馬身差をつける圧勝を遂げたが、評価はまだまだ高まらなかった。野元師が次なるレースに選んだ牝馬限定オープン戦の紅梅賞でも、リンデンリリーは14頭だての9番人気にすぎなかった。

 そんな低い人気を裏切るように、リンデンリリーはここでも強い競馬を見せた。直線では内にもたれながらも素晴らしい差し脚を見せたリンデンリリーは、ライバルたちをごぼう抜きにし、またたく間に後続を約3馬身ほどぶっちぎったのである。

『失われた春』

 紅梅賞を勝てば、リンデンリリーの通算成績は2戦2勝となり、オープン勝ちの本賞金が加わる。
「これならクラシックロードに乗れる!」
誰もが一瞬そう感じた。人々は、初めて新たなる桜花賞の有力候補が誕生する瞬間に胸を躍らせる・・・はずだった。

 しかし、リンデンリリーに待っていたのは残酷な結果だった。1着入線もむなしく、直線での斜行が他の馬の進路を妨害したとされたリンデンリリーは、13着降着の裁定を受けたのである。これは、前年に導入されたばかりの降着制度が、関西で初めて適用された事例となった。

 しかも、悪い時には悪いことが重なるものである。レース後しばらくして、リンデンリリーのソエが悪化し始めたのである。リンデンリリーはもともとソエに悩まされており、これまでも脚部不安をだましだまし乗ってきていた。そんな不安が爆発する形となったこの時の症状はかなり重く、レースへの出走どころではなくなってしまった。野元師は、リンデンリリーを長期休養に出さざるを得なくなった。その結果、リンデンリリーは春シーズン、つまり桜花賞、オークスのクラシックを完全に棒に振ることになってしまったのである。

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