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1991年牝馬三冠勝ち馬列伝~彼女たちの祭典~

~シスタートウショウ~
 1988年5月25日生。牝。栗毛。藤正牧場(静内)産。
 父トウショウボーイ、母コーニストウショウ(母父ダンディルート)。鶴留明雄厩舎(栗東)。
 通算成績は、12戦4勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、チューリップ賞(OP)優勝。
~イソノルーブル~
 1988年3月13日生。牝。鹿毛。能登武徳牧場(浦河)産。
 父ラシアンルーブル、母キティテスコ(母父テスコボーイ)。清水久雄厩舎(栗東)。
 通算成績は、8戦6勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、オークス(Gl)、4歳牝馬特別(Gll)
 ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)、エルフィンS(OP)。
 ~リンデンリリー~
 1988年3月16日生。牝。栗毛。向別牧場(浦河)産。
 父ミルジョージ、母ラドンナリリー(母父キタノカチドキ)。野元昭厩舎(栗東)。
 通算成績は、7戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、エリザベス女王杯(Gl)、ローズS(Gll)。

『戦いの後で』

 何はともあれ、1991年牝馬三冠戦線は、こうして幕を閉じた。古馬戦線になると牝馬限定戦は一気に少なくなり、牝馬三冠路線を戦い抜いた彼女たちには、上の世代、そして牡馬たちとの戦いの舞台が待っているはずだった。

 しかし、1991年4歳世代の頂点に立った牝馬たちは、それぞれ別の形で燃え尽きていた。

 まず、エリザベス女王杯を制したリンデンリリーは、岡騎手の下馬が暗示したとおり、レース中に故障していた。右前脚浅屈腱不全断裂。幸い生命に別状はなかったものの、競走馬としての復帰は不可能と診断された。おそらくは最後の直線で既に発症していたのだろうが、彼女はそんな脚でゴールを目指して走り続けたのである。その栄光の代償は、ようやく花開いたばかりの名花に訪れた、あまりにも早い競走生命の終末だった。通算成績は7戦4勝、まるでこの秋に一瞬咲き誇るためだけに芽吹いたユリのような、短くも鮮烈な競走生活だった。

 また、エリザベス女王杯で16着に敗れたオークス馬イソノルーブルも、この日を最後に、戦場を去ることとなった。イソノルーブルもレース中に靭帯を痛めたことが発覚したのである。こちらは、直線に入った時に脚を内ラチにぶつけたことが原因であるといわれている。通算成績は8戦6勝、2歳のセリでようやく500万円の安値で買い手が決まった安馬は、1年と少しの現役生活で2億円を超える賞金を稼ぎ出し、底を見せないままに引退することとなった。彼女の活躍は、今なお抽選馬の最大の成功例として語り継がれている。

 こうしてエリザベス女王杯を最後に、同世代に3頭しかいなかった牝馬のGl馬のうち、オークス馬とエリザベス女王杯馬の2頭までが競走生命を失った。そんな中で、1頭だけ残された桜花賞馬は、あくまで現役生活を続行して戦い続けた。

『ただ1頭の戦い』

 オークスで2着に入った後、長期療養を余儀なくされた桜花賞馬シスタートウショウは、長い闘病生活の末屈腱炎を克服した。オークスから1年半の空白を経て、1993年12月のポートアイランドSで復帰したのである。

 しかし、彼女を蝕んだ屈腱炎は、彼女からあまりに多くのものを奪っていた。OP戦で格落ちの相手ばかりだった復帰戦は8着に終わり、その後も今一つの成績が続いた。それでも6歳になってからは復活への光明が差し始め、4走目の中山記念では、直線でいったん先頭に立つという見せ場を作った。結果は残念ながら、そこからまさかの鬼脚を繰り出したムービースターに差し切られて2着に敗れたものの、その後も安田記念で4着に入り、桜花賞馬の意地をほんの少しだけ見せてくれた。

 復帰後のシスタートウショウは、このように健闘したことはあったものの、ついに勝つには至らなかった。シスタートウショウの屈腱炎について、関係者は
「復帰後は、能力が半減していた」
と嘆いている。父から受け継いだ良血と天賦の才で桜花賞まで駆け抜けた彼女は、その後は苦しみながらも戦い続け、単なる良血馬とは違った顔も見せてくれた。しかし、そんな彼女もついに6歳一杯で現役生活を終えることになった。通算成績は12戦4勝。故障の前と後とでまったく違った顔を見せてくれた彼女も、2頭のライバルに遅れること2年、生まれ故郷の藤正牧場へと帰っていった。

 そういえば、シスタートウショウの母であるコーニストウショウの「女腹」はついに改まることなく、コーニストウショウが生んだ13頭の産駒のうち、牡馬はわずかに2頭しか出なかった。しかし、その数少ない牡馬の1頭であるシスタートウショウの全弟トウショウオリオンは、99年に北九州記念を制覇し、トウショウボーイ産駒として最後の中央重賞制覇を果たした。トウショウボーイは1992年9月に蹄葉炎でこの世を去ったが、彼が残した天馬の血は脈々と生き続ける。

『あれから君は』

 こうして、1988年に生まれ、1991年の4歳牝馬三冠戦線の頂点に立った3頭の競走馬としての戦いは幕を下ろし、自らの優秀な血を後世に伝えるという繁殖牝馬としての生活に移っていった。

 3頭の牝馬たちがそれぞれの時を過ごす中で、91年牝馬三冠戦線で全員初めてGlの栄冠を得た3人の騎手たちにも、それぞれの時が過ぎ去った。まずは、3人のうち最も長く愛馬との時を過ごすことができた角田騎手。シスタートウショウの活躍で名前も売れて91年に自己最多の67勝を記録した彼は、94年から95年にかけて2度目の黄金期を迎えた。まず、1994年にはノースフライトで春秋マイルGl制覇を達成するとともに、フジキセキでも朝日杯3歳S(年齢表記は当時の数え年)を制覇した。95年には三冠制覇すら期待されたフジキセキの故障、引退という悲運はあったものの、ヒシアケボノでスプリンターズSを制覇、ビワハイジで阪神3歳牝馬Sを制覇している。その後は騎乗馬に恵まれなかったこともあって勝ち数、大レースでの実績とも足踏みしていたが、2000年には通算500勝を達成し、さらにジャングルポケットという大物も得た彼は、2001年日本ダービーを制して21世紀最初のダービージョッキーに名を連ねたが、2010年には通算713勝の実績を残して騎手を引退し、調教師へと転身している。

 イソノルーブルの松永騎手は、関西のトップジョッキーの1人として長らく活躍した。途中落馬事故で大けがを負い、腎臓を1個失うという悲劇に見舞われながらも、復帰後も勝ちを重ね、2006年に騎手を引退するまでに1428勝、Glも11勝を挙げている。ある程度勝ち数が伸びてくると皆フリーになってしまう風潮の中、松永騎手は、引退まで師匠である山本正司厩舎に所属し、その所属馬を大切にしながらこの数字を残したことは、称賛に値するだろう。また、彼のGl勝ち鞍はなぜか牝馬Glに集中しており、イソノルーブルの後も96年秋華賞(ファビラスラフイン)、97年桜花賞(キョウエイマーチ)、2000年桜花賞(チアズグレイス)とエリザベス女王杯(ファレノプシス)、05年天皇賞・秋(ヘヴンリーロマンス)など、多くのGlを牝馬で制する一方、牡馬でのGl制覇はなぜかダートに限られたため、「牝馬のミキオ」などと呼ばれた。そんな彼も、2007年以降は調教師として活躍している。

『淀のターフに散りし夢』

 だが、残る1人、リンデンリリーの岡騎手については、あとの2人のような輝かしい近況を紹介することはできない。それどころか、彼の時が動くことは、もうなくなってしまった。

 1993年1月30日のことだった。この日の新馬戦で1番人気に支持されたオギジーニアスに騎乗した岡騎手は、直線入り口の第4コーナーで落馬転倒し、馬場の中央に放り出された。そこへ殺到する後続の馬たち。・・・そして、そのうち1頭の脚が彼の頭を直撃した。これは、それまでのただ一度のGl制覇であるエリザベス女王杯と同じ京都競馬場での悲劇だった。

 すぐに病院に運び込まれた岡騎手だったが、関係者や多くのファンの必死の願いは届くことなく、同年2月16日、意識が戻らないままにこの世を去った。享年24歳。彼の戦績は、2177戦225勝から伸びることはなくなってしまった。彼は、残した数字以上に騎乗技術が高く評価されており、純粋な騎乗技術では、1年早くデビューした武豊騎手と並ぶとまで言われていた。それだけに、

「あいつが生きていれば、騎手リーディングで(武)豊が独走することはなかっただろう」

とは、岡騎手を知る競馬人の多くが証言するところである。リンデンリリーを管理した野元厩舎でも、後に主戦騎手は野元師の息子の野元昭嘉騎手(後に調教助手)が務めるようになっていったが、野元師は岡騎手を語る時、

「あいつ(岡騎手)さえ生きていれば、息子を所属騎手にする必要なんかなかったのに」

と、冗談ともつかぬため息をついたという。そんな岡騎手の実家には、彼の早過ぎる死を悲しんだファンが詠んだ
「冬枯れの 淀のターフに 散りし夢 永遠に忘れじ 君の面影」
という句を刻んだ石碑が置かれており、今も多くのファンがそこを訪れているという。

『彼女たちの祭典』

 1991年牝馬三冠戦線から、はや30年の時が経とうとしている。岡騎手は鬼籍に入ってしまったものの、彼とほぼ同世代であり、当時はやはりデビューして間もない若手騎手だった角田騎手、松永騎手も、今や中堅調教師の領域に入りつつある。そんな中で、彼らとともに戦った3頭の牝馬たちは、それぞれが優秀な種牡馬との間で何頭かの子をなして競馬場へと送り込んでいる。

 現時点では、彼女たちの産駒の中から大物が出たという話は聞かない。比較的有名なのが、通算6勝を挙げてダート重賞のガーネットSで2着に入ったイソノルーブルの息子イソノウィナーであろう。母はクラシック戦線を逃げで沸かせたが、息子は晩成タイプであり、母とは正反対の追い込み脚質で、ダートの上級戦を息長く盛り上げた。だが、そんな彼も突然の事故でサラブレッドの宿命に殉じてしまったのは悲しいことである。

 彼女たちが戦っていたころから、1991年三冠世代の牝馬たちは、レベルが高いといわれ続けてきた。しかし、実際には彼女たちの世代の牝馬は、三冠勝ち馬3頭も含めて古馬になってからGlを勝つことはできなかった。彼女たちがレベルの高いライバルたちとしのぎを削ったことは、彼女たち自身を消耗させ、古馬としての彼女たちの競走能力や、繁殖牝馬としての能力にも何らかのマイナスを残しているのかもしれない。

 しかし、名牝の血は、子の代では花開かずとも、孫、ひ孫の代で花開くということも少なくない。名競走馬であり、また名牝系の祖として知られるスターロッチも、直子の代では活躍馬はほとんど出ていない。あの桜花賞、オークス、そしてエリザベス女王杯を目の当たりにした私たちには、そんな厳しい戦いを勝ち抜いた彼女たちの血が持つ底力を信じることは容易なはずである。

 4歳牝馬三冠戦線。そこで輝いた馬たちが古馬になってからも同様に活躍することが少ないという点では、その魅力は牡馬に劣るものかもしれない。しかし、彼女たちの祭典には、そうであればこそ、自らの頂点を一瞬で燃やし尽くす美しさと切なさがある。

 人間には
「男の伝記は一代記となり、女の伝記は三代記になる」
という格言がある。これは馬にも当てはまり、「一代記」としてその馬自身の戦いが業績として熱く語られることが多い牡馬に対し、牝馬は後世に血を残すことが重視される分、安易な「血の継承」にばかり目が向いて、肝心の彼女たち自身の戦いについては牡馬ほどに語られることが少ない。しかし、私たちはそのような見方にとらわれず、女たちの「一代記」、戦いの歴史にももっと熱い検証の眼を向けるべきなのではないだろうか。

 4歳牝馬三冠戦線。彼女たちの祭典には、そうであればこそ、自らの頂点を一瞬で燃やし尽くす美しさと切なさがある。

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