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スズパレード列伝~皇帝のいない夏~

1981年3月21日生。2008年2月24日死亡。牡。鹿毛。柏台牧場(門別)産。
父ソルティンゴ、母スズボタン(母父ロムルス)。富田六郎厩舎(栗東)。
通算成績は、25戦12勝(3-8歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、中山記念(Gll)、オールカマー(Glll)、ダービー卿CT(Glll)連覇、金杯・中山(Glll)、福島記念(Glll)、ラジオたんぱ賞(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『皇帝世代』

 サラブレッドの強弱を語る時に欠かせない要素のひとつとして、そのサラブレッドが属する世代の強弱が挙げられる。日本の競馬体系は、まず世代限定戦から出発し、異世代との対決はクラシック戦線で同世代との決着をつけた後になる。そのため、同世代での対決では強く見えた馬でも上の世代との対決で馬脚を現したり、逆に同世代の中では二流とされていた馬が上の世代に混じって意外な健闘を見せてファンを驚かせることも、決してまれではない。強豪が揃った「強い世代」の中で埋没していた馬、逆に幸運に恵まれて「弱い世代」の中で栄冠を勝ち得た馬・・・様々なサラブレッドによる果てしなき戦いの過程を通じて、ファン、そして歴史は、真に「名馬」と呼ばれるべき存在を選別していく。

 そうした過程をことごとく勝ち抜き、「日本競馬史上最強の名馬」との名誉をほしいままにしたのが、1984年に無敗のままクラシック三冠を制し、翌85年にかけてGl通算7勝を記録した「絶対皇帝」シンボリルドルフである。彼は、同世代との決着を「無敗の三冠達成」という形でつけたにとどまらず、その後も歴史上有数の「強い世代」とされる1歳上のミスターシービー世代の名馬たち、そして1歳下の世代を代表する二冠馬ミホシンザンなど、当時の日本競馬における一流馬をことごとく撃破し、中長距離戦線を完全に制圧した。競走馬の体調、騎手の騎乗、天候、馬場状態、展開・・・流動するあらゆる不確定要素の中で勝ち続け、自らの絶対的な能力を結果によって証明したシンボリルドルフは、今なお多くのファンから信仰に近い畏敬を捧げられる名馬とされている。

 だが、その半面で、シンボリルドルフと同じ世代に生まれたサラブレッドたちは、シンボリルドルフとは違って厳しい評価に甘んじてきた。1981年に生まれた彼らの世代は「シンボリルドルフ世代」と呼ばれており、また他には呼ばれようがない。シンボリルドルフに負け続け、さらに上の世代、下の世代との対決においても常に苦渋をなめさせられ続けた彼らは、「弱い世代」という汚名を受ける羽目になっている。

 なるほど、シンボリルドルフを除く「シンボリルドルフ世代」の顔ぶれは、前後の世代と比べてかなり見劣りするといわなければならない。ビゼンニシキ、ニシノライデン、スズマッハ・・・。世代の一流馬といわれた彼らも、しょせんはGl未勝利である。ミスターシービーを筆頭に、カツラギエース、ニホンピロウィナー、ギャロップダイナといった強豪が並ぶ「ミスターシービー世代」はいうに及ばず、ミホシンザンだけでなく、サクラユタカオー、タカラスチールらも世代混合Glを勝っている「ミホシンザン世代」にも劣るといわなければならない。というよりも、「シンボリルドルフを除くシンボリルドルフ世代」に劣る世代は、歴史を振り返ってもなかなか見つけられないというのが正直なところである。

 だが、同世代の馬たちがシンボリルドルフ、そして異世代の強豪たちに敗れ、次々とターフから消えていく中で、数々の敗北にあってもなお夢を諦めずに走り、戦い続けた馬がいた。そんな彼がGlの大輪の花を咲かせた時、彼を苦しめ続けたシンボリルドルフはとうにターフを去り、彼自身も既に7歳(現表記6歳)になっていたが、彼の勝利は、シンボリルドルフを除いた彼らの世代唯一の世代混合Gl制覇となった。

 皇帝のいない夏にようやく遅咲きの才を開花させた彼は、その後も戦い続けることに生きる意義を見出したかのように現役を続け、ターフを沸かせたのである。

 シンボリルドルフと同じ年に生まれ、同じクラシックを戦い、低い評価に泣きながらもついにはGlを手にしたその馬とは、1987年の宝塚記念馬スズパレードである。

『目立たない出生』

 スズパレードの生まれ故郷は、当時門別に存在していた柏台牧場という生産牧場である。柏台牧場は、後にオグリキャップの宿敵・スーパークリークを生産したことで有名になるが、当時はまだGl馬を輩出していなかった。

 スズパレードの母スズボタンは、競走馬としては4勝を挙げる実績を残していたものの、産駒たちの成績は今ひとつだった。スズパレードの上の3頭の兄姉は、いずれも特筆すべき成績を残していない。後にはスズドレッサー(父カツラギエース、中央5勝)やユウキスナイパー(父ミスターシービー、中央3勝)、クリールサンプラス(父イブンベイ、中央3勝)らを次々と送り出すスズボタンだが、スズパレードが生まれた当時は、血統的にさほど注目を集めてもいなかった。

 ただ、牝系の方は目立たないスズパレードだったが、父の方は人々の耳目を集めやすい悲劇に彩られていた。

『悲劇の父』

 スズパレードの父ソルティンゴは、社台ファームの総帥・吉田善哉氏の所有馬として伊仏で走り、15戦5勝、イタリア大賞(伊Gl)、ミラノ大賞(伊Gl)を勝ち、伊ダービー(伊Gl)2着という2400mの大レースで実績を残した。それらの実績を買われたソルティンゴは、種牡馬として日本へ輸入されることになった。日本での「種牡馬・ソルティンゴ」に期待をかけていた人々は、彼にその後どのような運命が待ち受けているのか、知る由もなかった。

 輸入初年度の種付けシーズンを無事に終えたある日のこと、ソルティンゴはいつものようにパドックに放牧される・・・はずだった。ところが、担当厩務員のミスによって、ソルティンゴは彼の本来のパドックではなく、隣のバウンティアスのパドックに、バウンティアス自身も放牧されているにも関わらず、放牧されてしまった。

 怒ったのは、バウンティアスである。彼にしてみれば、自分の縄張りを闖入者に荒らされた形となる。悪いことに、バウンティアスは当時の種牡馬の中でも名だたる激しい気性を持っていた。怒り狂ったバウンティアスは、ソルティンゴに襲いかかってきた。

 ソルティンゴは、怒りに燃えたバウンティアスに蹴飛ばされ、大けがを負ってしまった。しかも、怪我の箇所が悪く、種牡馬の命というべき受精能力を失ってしまったのである。ソルティンゴの担当厩務員は、自らの失態に責任を感じたのか、事故の数日後に割腹して果てている。

 期待の種牡馬の将来だけでなく、担当厩務員の生命まで奪った悲劇に、社台ファームは悲しみに沈んだ。ソルティンゴについては、万に一つ回復するかも知れない、という淡い期待のもとに種牡馬登録を抹消せず、懸命の治療を続けたが、その熱意は実を結ぶことのないまま、スズパレードがデビューした1983年に死亡した。ソルティンゴは、わずかにスズパレードを含む1世代しか産駒を残すことができなかったのである。

『思ったより走るぞ』

 スズパレードは、こうして生産界の歴史から姿を消したソルティンゴが遺した忘れ形見の1頭であり、その意味でわずかに注目を集める程度の馬だった。生まれてきたスズパレード自身は、小柄な体格であまり見栄えがせず、地味な存在だった。

 ただ、スズパレードが育った柏台牧場には、他の牧場にはない特色があった。柏台牧場では、自然の地形を利用して、牧場の敷地内に大きな高低差をつけていた。

 また、柏台牧場は、当時ようやく日本で採り入れられ始めたばかりだった自然放牧を、他の牧場に先駈けて導入していた。おかげで、柏台牧場の中では、馬が移動する際には天然の「坂路」を越えなければならず、馴致前から自然と幼駒の腰が鍛えられるというメリットがあった。

 生まれながらに若干の脚部不安があったスズパレードだったが、天然の「坂路」で鍛えられ、次第に隠された資質を発揮するようになっていった。やがて馬主、所属厩舎も決まり、中央競馬でデビューすることになったスズパレードは、デビュー戦こそダートで3着に敗れたものの、折り返しの新馬戦では芝に替わって何と9馬身差の圧勝を見せた。

 初勝利を挙げて意気上がるスズパレードは、その勢いを駆って400万下、オープン特別も勝ち、3連勝を飾った。3連勝の内容も、先行して直線で抜け出し、余力を残して勝つという横綱競馬ばかりだった。

 3歳戦を終えて4戦3勝3着1回ならば、「クラシックの主役候補」といっても十分に通用する。富田六郎調教師をはじめとする関係者たちは、

「この馬は、思ったより走るぞ」

と驚き喜び、これならばクラシックも夢ではない、とひそかに胸を躍らせた。そんな彼らのクラシックロードの始まりは、共同通信杯4歳S(Glll。年齢は当時の数え年表記)だった。

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