TOP >  年代別一覧 > 1980年代 > スズパレード列伝~皇帝のいない夏~

スズパレード列伝~皇帝のいない夏~

『福島へ』

 春のクラシックの有力馬たちは、日本ダービーの後に放牧に出されるのが常だが、スズパレードの場合はもう1回叩いた後に放牧することになった。秋の選択肢を広げるためには、本賞金をもっと加算しておく必要があったためである。

 スズパレードの次走は、ラジオたんぱ賞(Glll)に決まった。ラジオたんぱ賞は、競馬場の改修などの事情がない場合は、当時から福島で開催されてきた。福島といえば、スズパレードを管理する富田師の地元でもあった。

 しかし、ファンは春のクラシックで大崩れすることのなかったスズパレードの手堅い実力を十分理解してはいなかった。この日の1番人気は、皐月賞、日本ダービーの4着馬ではなく、ダービーの裏でニュージーランドT4歳S(Glll)を制していたニッポースワローの手に落ちていた。

 スズパレード陣営にしてみれば、この相手で自分の競馬ができれば負けるはずがないと思っていた。春はシンボリルドルフやビゼンニシキといった強い相手と戦ってきたという思いがあるスズパレードにとって、このレースのメンバーでは、ニッポースワローを含めた全出走馬より格上と自負していた彼らにとって、不本意な人気だったことは間違いない。

 春のレースから、スズパレードの特徴は長くいい脚を使える半面、一瞬の切れ味に欠けることだと考えた田村正光騎手は、早めに仕掛ける積極策に出た。すると、前にいた馬たちが競り合って共倒れになった影響もあったとはいえ、自らの持ち味も十分出し切って馬群から鮮やかに抜け出し、2馬身半差の快勝を収めた。こうしてスズパレードは、富田師に地元での重賞制覇という大きな喜びをプレゼントしたのである。

 レースの後、田村騎手は

「他の馬とは鍛えられ方が違ってますからね。このメンバーで負けたら、僕の責任だと思っていましたよ」

と話している。この時点での彼らには、秋に向けた進路はまだはっきりと定まっていなかった。

『絶対皇帝、君臨す』

 たんぱ賞で重賞ウィナーの仲間入りを果たしたスズパレードは、秋緒戦に選んだセントライト記念(Glll)で、シンボリルドルフに4度目の対決を挑むことになった。

 シンボリルドルフの秋のローテーションについては、当時あまりの強さに

「もはや三冠を獲る必要すらない」

といわれ、菊花賞(Gl)は使わずに直接ジャパンC(Gl)へ向かう、という噂もささやかれていた。完全に勝負づけがついた同世代とは、もう戦う必要すらないということであり、ここまでいわれたのでは、同世代の馬たちの矜持は形無しである。完全に勝負づけがついた・・・それは、春に関してはまったく事実であるだけに、余計に始末が悪い。菊花賞かジャパンCかはさておき、叩き台として出てくるシンボリルドルフに対し、スズパレードは誇りをかけて戦うしかなかった。

 スズパレードは、この時まだ本調子ではなかった。夏負けを起こして馬体が減った影響で、調教も十分ではなかったし、体調すら万全ではなかったのである。しかし、もはや自分たちと同じ土俵に上がってくれないかもしれないシンボリルドルフに対しては、どこかで目に物を見せなければ、戦士の矜持がすたってしまう。

 そんな悲壮な決意でセントライト記念に臨んだスズパレードだったが、実際には、体調不良で挑んでくる馬などもはやシンボリルドルフの相手ではなく、絶対皇帝の牙城は磐石だった。レコードタイムで3馬身差の圧勝を演じたシンボリルドルフの前に、スズパレードはあっさりと返り討ちにあって6着に惨敗し、またしても厚い壁に跳ね返された。

 こうして前哨戦でシンボリルドルフに完膚なきまでに叩きのめされたスズパレードは、もはや皇帝にはかなわない、ということで菊花賞(Gl)を回避する羽目になってしまった。スズパレードと同世代、同馬主の馬の中には、血統的にも従兄弟にあたるダービー2着馬スズマッハがいた。馬主サイドは、

「万にひとつでも皇帝を破り得るとすれば、スズパレードではなくスズマッハだろう」

ということで、菊花賞はスズマッハに任せてスズパレードは裏街道・・・ローカルの中距離戦線で一から出直すことになった。

『我が道を往く』

 スズパレードは、中央開催の中長距離戦線が菊花賞、ジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)という華やかな戦いに沸いている頃、陽の当たる中央開催に背を向け、美浦を離れて再び福島へと向かった。本来ならば自分も出走するはずだった菊花賞・・・その1週前に行われる福島民友C(OP)へ出走するためだった。

 しかし、スズパレード陣営の選択は、結果として吉と出た。シンボリルドルフの呪縛から逃れたスズパレードは福島の地で再生し、福島民友C、そして続く福島記念(Glll)を連勝したのである。弱い馬を相手に適距離で走ることができる裏開催でなければ、スズパレードの大成はなかったかもしれない。彼は、いよいよ本格化の兆しを見せ始めた。

 5歳になって中央開催へ帰ってきたスズパレードは、まず手始めに中山金杯(Glll)を楽勝し、単なる「福島巧者」ではないことを世に示した。レース前に

「4歳の後半を福島で使ってきたのは、この馬の力に合ったレースを選んだため。その間に、この馬は見違えるほど成長しました。この金杯に勝てば、本当の意味でのA級馬と言えるでしょう」

と意気込みを語っていた富田師だったが、福島民友C以来の3連勝、しかも着差も1馬身半、2馬身、3馬身と次第に広がっていくさまは、彼の言葉と自信を裏付けていた。もはや、かつての大舞台に弱いスズパレードではなかった。

『コンプレックス』

 だが、ようやく本格化し始めたスズパレードを待っていたのは、思わぬ運命だった。次走に予定していた中山記念(Gll)を直前にして、スズパレードは脚部不安を発症してしまった。シンボリルドルフとの天皇賞・春(Gl)での再戦も、不可能となった。

 この年の春は天皇賞・春を大目標と考えていたスズパレード陣営の人々にとって、これは不運以外の何者でもなかった。しかし、スズパレード自身にとって、それはむしろ幸運だったのかもしれない。前年のジャパンC(Gl)で、カツラギエースの一世一代の大逃げの前に3着に敗れたシンボリルドルフの連勝は止まっていたが、その後の有馬記念(Gl)では、ミスターシービー、カツラギエースらをまとめて粉砕し、さらに年が改まって日経賞(Gll)では、格下の相手に「競」馬とさえ呼ぶことがはばかられる馬なりの逃げで圧勝しており、絶対皇帝の進撃はとどまるところを知らなかった。

 当時のシンボリルドルフと同世代の有力馬たちを見ると、ビゼンニシキは故障して引退し、スズマッハはマイル路線への転進を図っていた。4歳春からシンボリルドルフと戦い続けてきた馬たちは、それぞれの形で苦しみ、追い詰められてきた。そんな中で、スズパレードだけが不運だったとは言えまい。むしろ、スズパレードはシンボリルドルフの強さを知っているからこそ、彼と直接戦うことを拒否したのかもしれない。

 結局スズパレードは、復帰戦となった天皇賞・秋(Gl)でシンボリルドルフともう1度戦ったものの、この時の彼は、まったく戦う意志を持たないかのようなだらしなさで、終始後方のまま15着に沈んだ。このレースでは、シンボリルドルフがニホンピロウィナーやウィンザーノットを競り落としたところでなんと準OP馬のギャロップダイナに急襲され、差し切られるという大波乱が起こった。しかし、シンボリルドルフの一つ上の世代の馬達が最後の最後まで打倒シンボリルドルフにすべてを燃やし尽くしたのに比べて、スズパレードをはじめとするシンボリルドルフと同世代の馬たちがシンボリルドルフに先んじることは、ついになかった。

1 2 3 4 5
TOPへ