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スズパレード列伝~皇帝のいない夏~

『無限の明日』

 スズパレードは共同通信杯4歳Sに出走したものの、ここでのファンの注目は彼ではなく、同じく3連勝中で、しかもこちらは無傷の3戦3勝というビゼンニシキに集中した。1番人気ビゼンニシキの単勝は140円で、2番人気スズパレードの440円を大きく引き離していた。

 そして、スズパレードはここで「世代の一流馬」と呼ばれる強豪の実力を知ることになった。ビゼンニシキを脅かすこともできないまま4着に敗れ、彼の連勝は終わりを告げた。クラシック戦線が近づくにつれて、無数の主役候補たちは次第に絞られ、真の主役と脇役との差がはっきりし始める。スズパレードもまた、この敗戦によって脇役へと分類されつつあった。

 もっとも、だからといってこの時点でクラシックを諦めるという選択肢は、スズパレード陣営には存在しなかった。もともと中距離血統のスズパレードが春のクラシックに出ずして、どんなレースに出ようというのか。

 スズパレードは、共同通信杯4歳Sの後は弥生賞(Glll)、皐月賞(Gl)、そして日本ダービー(Gl)という春のクラシックの王道を歩むことになった。だが、彼の王道での戦いは、彼の最大の不運・・・1984年クラシック世代に生まれた不幸を引き立たせるだけになることを、彼を取り巻く人々はいまだ知らない。

『非運の名馬たち』

 スズパレードの次走・弥生賞には、彼だけでなく、この年のクラシック戦線で有力視されていた他の強豪たちも出走してきており、その中には共同通信杯4歳S(Glll)でスズパレードを破って無傷の4連勝を果たしたビゼンニシキの姿もあった。

 しかし、ビゼンニシキの鞍上には、共同通信杯までのパートナーだった岡部幸雄騎手の姿はなかった。他の馬の陣営からも騎乗依頼を受けていた岡部騎手は、4連勝で弥生賞に駒を進めたビゼンニシキを捨てて他の馬を選び、この日はその馬の鞍上にあった。

 シンボリルドルフ。岡部騎手がビゼンニシキとの間でもまったく迷うことなく選んだその逸材は、後に無敗のまま三冠を達成し、Gl7勝を挙げ、日本競馬界史上最強の名馬としてすべての栄光をほしいままにして「絶対皇帝」と呼ばれる運命を背負った馬だった。

 弥生賞、皐月賞はすべて「シンボリルドルフ対ビゼンニシキ」という構図で戦いが繰り広げられた。休み明け18kg増のシンボリルドルフが、満を持したはずのビゼンニシキに永遠の1馬身4分の3差をつけた弥生賞、そして弥生賞の反動か、22kg減のシンボリルドルフに対し、意地と誇りをかけてビゼンニシキが挑み、

「ルドルフは苦しさのあまり斜行した」
「斜行がなければ、結果はどっちに転んだか分からない・・・」

 今なおそう語り継がれる皐月賞。これらの戦いは、いずれもシンボリルドルフに凱歌があがった。ビゼンニシキの潜在能力と完成度も相当のものだったのだろうが、巡り合わせがあまりに悪すぎた。

 では、そんな戦いの中で、スズパレードはどこにいたのか。・・・弥生賞、皐月賞ともビゼンニシキの次の次、共同通信杯4歳Sと同じ4着に収まっていた。田村正光騎手を背にして臨んだこれらのレースで、スズパレードが「二強」を脅かすシーンはなく、健闘を称えられる着順ではあるにしろ、それ以上のものではなかった。

『皇帝の陰』

 皐月賞で4着に入ったことで日本ダービーへの出走を果たしたスズパレードだったが、それまでのレースでシンボリルドルフとは完全に勝負づけがついた形の彼に対し、ダービー制覇の期待は盛り上がらなかった。4番人気とはいえ、彼の単勝オッズは3000円近かった。というより、3番人気の馬でさえオッズは2000円を超え、焦点は単勝130円の断然人気を背負うシンボリルドルフに、同じく500円のビゼンニシキがどう挑むか、その一点に絞られていた感すらあった。

 彼が話題になったといえば、この日の21頭の日本ダービー出走馬たちの中には、スズパレードを含めて3頭のソルティンゴ産駒がいたことくらいだった。わずか1世代の供用で種牡馬としての生命を失ったソルティンゴが遺した42頭の産駒たちからこれだけのダービー出走馬が出たことは、まぎれもなくソルティンゴの種牡馬としての能力の高さを実証するものだった。そのことに気づいた馬産地の人々は、

「ソルティンゴがもっとたくさんの仔を残していてくれれば・・・」

と、彼の悲運を惜しまずにはいられなかった。

 しかし、彼が注目を集めたのは、そこまでだった。この年の日本ダービーもまた、後世には「シンボリルドルフのためのレース」として語り継がれている。距離適性の差か、ライバルのビゼンニシキが大きく崩れて馬群に沈む中、シンボリルドルフも、向こう正面では岡部騎手の仕掛けにまったく反応せず、場内はどよめきに包まれた。だが、シンボリルドルフは第4コーナーを回ったあたりで、馬自身が勝負どころと判断すると、馬が勝手に動いて最後にはきっちり馬群を抜け出し、二冠を達成したのである。レース後、岡部騎手は

「馬に勝ち方を教えてもらった」

というコメントを発している。

 シンボリルドルフよりも常に前で競馬をしようとしたスズパレードが見せつけられたのは、どんな競馬をしても最後は冷酷にかわされ、突き放されてしまう己とシンボリルドルフとの絶望的な差だけだった。この日4着だったスズパレードも、決して無様なレースをしたわけではない。他の世代に生まれてさえいれば、展開次第でクラシック戴冠の可能性もあったかもしれない。しかし、現実の彼の前には、常に若き日の皇帝がいた。

 日本ダービーの結果、もはや時代は二強ですらなく、1984年クラシック戦線、そして日本競馬界は、「シンボリルドルフ時代」へと突入していった。いつしか「絶対皇帝」と呼ばれるようになった無敗の二冠馬に、スズパレードを含めた他の馬がつけ入るスキは、もはや残っていなかった。

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