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スズパレード列伝~皇帝のいない夏~

『楽あれば苦あり』

 しかし、宝塚記念を制して悲願のGl制覇を果たしたスズパレードを待っていたのは、またしても苦難の道だった。激走の代償は、3度目の脚部不安発症だったのである。

 富田師は、後にスズパレードについて

「骨折以外の脚部不安は、すべて経験した」

と回想している。卓越した能力を持つスズパレードだったが、そうであればこそ、馬体・・・というよりは自らの能力をその脚で支え切ることができなかったのかもしれない。

 この時の休養は、既に7歳という高齢のためもあって、これまでにないほど長引いた。この年の秋はもちろんのこと、翌年の春も全休した。

「スズパレードはこのまま引退するのではないか」

 そんな観測が流れたのも、当然のことだった。

『老兵は死なず・・・』

 しかし、スズパレードは不死鳥の如くターフへ還ってきた。8歳いっぱい走った後で引退、というプランのもとで、復帰のために全力が尽くされた。スズパレードも、レースが近付くと、まるでそのことが分かっているかのように、飼い葉を食べるのを控えて自ら実戦に耐える身体を作っていった。

 スズパレードの復帰戦となったオールカマー(Glll)の時、宝塚記念の歓喜からはもう15ヶ月が過ぎ去っていた。スズパレード自身も、8歳の秋を迎えていた。

 競馬評論家を初めとするプロたちは、スズパレードの長すぎるブランクを不安視し、あまり高い評価をしてくれなかった。だが、一般のファンは、還ってきた歴戦の勇者のことを忘れておらず、スズパレードはこの日、天皇賞・春(Gl)2着馬・ランニングフリーや往年の二冠牝馬・マックスビューティ等を抑え、堂々の1番人気に推された。調教技術の進歩によって、長期休養明けがかつてほどのマイナス材料にならなくなりつつあったとはいえ、よほど馬自身の実力が認められていなければ、この人気は勝ち取れない。

 そして、スズパレードは人気だけではなく、このレースで本当に勝ってしまった。勝ち時計はコースレコードというおまけ付きである。奇しくもこの時の勝ち時計と2着との着差は、宝塚記念とまったく同じ2分12秒3、2馬身差というものだった。この時体調を崩して入院していた富田師は、病院のベッドの上から手塩にかけたスズパレードの復活劇をテレビで目にし、感動のあまり熱い涙を流した。

 だが、8歳という高齢、そして15ヶ月のブランクをものともせずに鮮やかな重賞8勝目を挙げたスズパレードにも、現役生活の終わりが確実に近づいていた。その頃、競馬界は、皇帝以来の新しい最強馬を得つつあった。「笠松から来た怪物」ことオグリキャップの影は、ひたひたとスズパレードの背後に迫りつつあった。

『ただ、消え去るのみ』

 オグリキャップは、今や説明不要の期待のアイドルホースにして超一流馬である。公営笠松競馬で12戦10勝の成績を残して中央入りしたオグリキャップは、中央競馬でも出るレース出るレースで連戦に次ぐ連勝を重ねた。競馬の華というべきクラシックレースには、クラシック登録がなかったことから出走できなかったものの、裏街道で対戦する4歳馬たちでは相手にならず、古馬との混合戦に出走しても、やはり次々勝ちを重ねるという快進撃は、この時も続いていた。オグリキャップこそは、シンボリルドルフ以来久々に現れた競馬界の歴史的名馬だった。当時の競馬界の話題といえば、この怪物オグリキャップと、当時の最強古馬タマモクロスという2頭の芦毛のどちらが強いのか、という一点に絞られていた。

 脚部への配慮から天皇賞・秋(Gl)を回避し、ジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)というローテーションを採ったスズパレードだったが、オグリキャップとタマモクロスの一騎打ちにはまったく加わることもなく、見せ場も作れないまま大敗してしまった。

 そして、オグリキャップがタマモクロスとの一騎打ちを制して天皇賞・秋、ジャパンCの借りを返したことに沸いた有馬記念を最後に、スズパレードは予定通りに引退することとなり、シンボリルドルフ世代の最後の生き残りは、ひっそりと競馬場を去っていった。

 引退後に種牡馬となったスズパレードは、従兄弟であり、僚馬でもあったスズマッハとともに、浦河のイーストスタッドで種牡馬生活を送ったものの、2桁の産駒数を確保できたのは最初の2年だけで、その後の産駒数はずっと1桁に留まった。産駒から地方やアラブでの活躍馬は出たものの、そのことは種牡馬スズパレードに人々の目を向けさせるきっかけとはならなかった。

 しかし、2000年に種牡馬を引退して功労馬となったスズパレードは、2008年2月24日に死亡するまでの間、悠々自適の生活を送ったという。

『むかしがたり』

 終わってみれば、「シンボリルドルフ世代」のうちシンボリルドルフ自身を除くと、世代混合Glを勝ったのはスズパレードだけということになった。彼らは単に世代混合Glを勝てなかったというにとどまらず、シンボリルドルフとの対戦成績からいっても、1歳上の「ミスターシービー世代」の馬たちは2度シンボリルドルフを破っているのに対し、より対戦機会が多かった彼らは一度もシンボリルドルフに先着することができなかった、という意味でも差をつけられている。彼らの世代が、客観的に「弱い世代」に属することは、間違いないといわなければならないだろう。

 しかし、シンボリルドルフ世代の馬たちは、4歳、5歳というサラブレッドの成長期、完成期に、1頭の次元の違いすぎる馬と一緒に走らざるを得なかった。4歳春にルドルフ最大のライバルだったビゼンニシキは、文字どおり潰される形で、大きなタイトルを得ることすらできないまま、早い時期に引退している。また、故障に見舞われることなく古馬戦線へと進むことができた馬たちも、クラシック戦線でシンボリルドルフに粉砕されて自信を喪失した状態だった。彼らは、シンボリルドルフと同世代に生まれたという自らの運命に泣かされた犠牲者でもあった。

 彼らの中には、もし他の世代に生まれていれば、Glを勝てていた馬がいたかもしれない。・・・だが、それはあくまでも「たられば」の話であり、仮定と想像の上にのみ成り立つ可能性でしかない。実際には、彼らは「弱い世代」と評価され続けながらつらい現実を生きてきた。もしもスズパレードというサラブレッドが存在しなかった場合、彼らの評価は今よりもっと低いものになっていたことだろう。

 皇帝と同じ年に生まれ、同じクラシックを戦い、皇帝のいない夏にようやく遅咲きの才を開花させたスズパレードは、競走馬、そして種牡馬としては苦労の多い馬生を過ごしたものの、その果ての老後は、決して不遇なものではなかった。同じ境遇にあった戦友スズマッハと共に過ごした晩年、彼は朋友といったい何を語り合っていたのだろうか…

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