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スペシャルウィーク本紀・日本総大将戦記

1995年5月2日生 2018年4月27日死亡 牡 黒鹿毛
父サンデーサイレンス、母キャンペンガール(母父マルゼンスキー)
日高大洋牧場(門別) 白井寿昭厩舎(栗東)
通算17戦10勝(旧3-5歳時)、天皇賞春・秋(Gl)、東京優駿(Gl)、ジャパンC(Gl)、弥生賞(Gll)、京都新聞杯(Gll)、阪神大賞典(Gll)、AJCC(Gll)、きさらぎ賞(Glll)
優勝。

第1部・託されたもの

『20世紀の王道』

 2022年3月26日、UAEで開催された「ドバイ・ワールドカップデー」の結果は、ある意味で日本競馬に衝撃をもたらすものだった。「国際レース8戦のうち、日本勢が5勝」という結果は、メインレースのドバイワールドカップ(国際Gl)自体はチュウワウィザードの3着が最先着だったという点を差し引いても、驚くべきものだった。

 日本競馬の起源は、1860年、外国人居留地で行われた草競馬に遡るとされている。もっとも、この当時の日本競馬は、母国で競馬を嗜んでいた来日外国人の趣味という色彩が強い。この外国人が興じる競馬を模倣して始まった「日本競馬」は、20世紀に入って本格的に始動し、やがて「クラシック三冠」を頂点とする英国のレース体系を模範として発展してきた。

 そんな日本競馬は、1984年のグレード制導入前夜の時期からは、

「世界の競馬に追いつくこと」

を目標として発展してきた感がある。1981年に日本初の国際レースとして創設され、海外の「二流馬」と言われていた招待馬たちに、国内のオールスター勢が枕を並べて惨敗した第1回ジャパンCを大きな転機として、日本競馬は「海外競馬」を目標として意識するようになった。そして、「海外競馬」に並び、追い越すための道標として「ジャパンCを勝つこと」を目指した日本競馬は、やがて

「クラシック三冠を勝ち抜いた一流馬が古馬中長距離戦線を戦い、そしてジャパンCで海外の一流馬を迎え撃つ」

というひとつの「王道」を確立していった。そのジャパンCで、20世紀には日本馬の8勝12敗だったものの、21世紀には19勝2敗(2021年まで)と大きく勝ち越すに至る歩みは、日本競馬の現代史そのものである。

 21世紀に入ってからの日本競馬は、ジャパンCどころか海外で実績を残す名馬が多数輩出されるようになったことに加えて、国内における価値観も多様化し、短距離・ダート路線の整備によって中長距離以外のGlの選択肢が広がる一方で、中長距離路線の中でも距離適性や最適のローテーションに合わせてレースを調整する傾向が強まったことにより、「王道」を皆勤する名馬は大きく減少している。

 だが、そうした「王道」の位置づけが変わってゆく直前期である20世紀の末期に、日本競馬は「王道」の名馬を立て続けに得た。そんな名馬たちの存在感は、時代の変わり目であるがゆえに、我々の記憶に強く、そして美しく刻まれることになる。

 スペシャルウィークは、20世紀の末期に現れた「王道」の名馬の1頭である。そのレベルの高さゆえに「黄金世代」と謳われた98年クラシック世代の日本ダービー馬であり、また三冠全てで世代の中心にあり続け、さらに99年には、天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、ジャパンC、有馬記念という古馬中長距離Glを皆勤し、100%の連対率を残した。特に99年の第19回ジャパンCでは、まぎれもなき当時の「世界最強馬」とされ、直近の凱旋門賞では同世代で前年のジャパンCを制したエルコンドルパサーを下していたMontjeuをはじめ、英愛仏独4か国のダービー馬を含む外国招待馬を打ち破って戴冠した彼の立ち位置と実力を物語るように、実況、そしてファンは彼のことを「日本総大将」と称したのである。

 だが、スペシャルウィークが「日本総大将」と呼ばれるようになるまでの道のりは、決して平たんだったわけではない。今回のサラブレッド本紀では、そんなスペシャルウィークの戦いの歴史をたどってみたい。

『名牝シラオキ系』

 1998年の東京優駿(Gl)、99年の天皇賞春秋(Gl)、ジャパンC(国際Gl)を制したスペシャルウィークは、89年の米国二冠馬にして年度代表馬サンデーサイレンスを父、日本の未出走馬キャンペンガールを母として、1995年5月2日、日高大洋牧場で生を享けた。

 サンデーサイレンスについては、日本が競馬先進国と認められるために大きな役割を果たした大種牡馬として広く語られる、説明不要の歴史的名馬である。これに対して、キャンペンガールは、実績だけを見ると、そんなサンデーサイレンスの交配相手としては違和感を持たれそうに見える。

 しかし、キャンペンガールは、繁殖牝馬として決して「箸にも棒にもかからない存在」だったわけではない。むしろ、日高大洋牧場にとって大きな意味を持つ存在だった。

 キャンペンガールの牝系を遡ると、20世紀初期に小岩井農場が輸入した基礎牝馬の1頭であるフローリスカツプに遡る。そして、彼女の血を引くサラブレッドたちの中でも特に実績を残したシラオキの系統に属していた。

 シラオキは、日本が太平洋戦争で敗れた混乱のさなかである1946年に生まれ、競走馬としては旧3歳から6歳までの間に48戦9勝という戦績を残した。主な勝ち鞍は函館記念とされているが、デビュー戦をレコードタイムで勝っていたり、優駿競走(東京優駿の前身)では19番人気で勝ったタチカゼから半馬身差の2着に12番人気で突っ込んだことで2着に入ったり、当時は晩秋に行われていた優駿牝馬でも3着に入ったり・・・と、競走馬としても、なかなかの実績を残している。

 しかし、シラオキが本当に凄みを発揮したのは、繁殖入りした後のことである。繁殖入りして53年春に初子を出産した後、馬主と牧場のトラブルに巻き込まれたり、不受胎だったりで空胎が続いたが、4年ぶりとなる57年に生まれたコダマは皐月賞、東京優駿、宝塚記念、阪神3歳Sなど17戦12勝の戦績を残した。翌58年に生まれたシンツバメも皐月賞を制し、さらにシラオキの娘たちからも71年阪神3歳S勝ち馬ヒデハヤテをはじめとする活躍馬が続出したことで、シラオキの牝系の血統的価値は、次第に高騰していった。彼女の血統は、97年の菊花賞馬マチカネフクキタルや、2007年日本ダービーをはじめとするGl7勝馬ウオッカを通じて、現代にも生き残っている。

『執念の血』

 日高大洋牧場は、もともと北海道の農家ではなく、馬主として競馬の世界に魅せられた創業者の小野田正治氏が、夢昂じて1970年に創業した牧場である。それほどの競馬への愛ゆえに、血統へのこだわりも強かった正治氏は、かねてからシラオキ系の繁殖牝馬を欲しいと希望していた。

 やがて、シラオキ系の中では活躍馬があまり出ておらず、実績も目立たない牝馬タイヨウシラオキを手に入れた正治氏だったが、この1頭だけで満足することはなく、その後も以前から懇意にしていた浦河の鎌田牧場が権利を持っていたシラオキ系の牝馬のミスアシヤガワに目を付けて交渉し、彼女の娘となるレディーシラオキを手に入れることに成功した。ミスアシヤガワの系統は、タイヨウシラオキと比較すると評価の高い血統だったが、当時の人気種牡馬セントクレスピンの種付け株を日高大洋牧場が所有していたことから、

「今年のセントクレスピン株は、鎌田牧場でミスアシヤガワの交配に使っていただいて結構です。その結果生まれてきたのが牡なら、好きにしていただいて構いません。その代わり、もし牝馬が生まれてきたなら、買い取らせていただきたい・・・」

と申し入れ、承諾を得たのである。ミスアシヤガワにセントクレスピンを無料で種付けした上で牡が生まれたら丸儲け、牝が生まれても「買い取ってくれる」というのであるから、鎌田牧場には、どう転んでも損はない話である。

 1978年春、ミスアシヤガワが生んだのは、正治氏が望んだ牝馬だった。レディーシラオキと名付けられた彼女は、小野田氏の長男の所有馬として、競馬場で走ることになる。・・・だが、シラオキ系の導入に執念を燃やした正治氏が、レディーシラオキのデビューを見ることはなかった。彼は、レディーシラオキが生まれる数か月前に、52歳の若さで急死したのである。正治氏の事業とともに牧場という夢を継いだ息子たちにとって、レディーシラオキは父親の形見となった。

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