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スペシャルウィーク本紀・日本総大将戦記

『狙う男』

 日高大洋牧場からキャンペンガールの子の入厩の話があった時、白井師は歓喜した。彼は、その子馬が生まれるずっと前から、彼に並々ならぬ関心を寄せていたためである。

 もともと白井師は、キャンペンガールがその子馬を出産してから1週間も経たないころに、日高大洋牧場を訪ねていた。その時の白井師は、2週間後にはオークス(Gl)へダンスパートナーを送り出す大勝負を控えていたが、その多忙なスケジュールの合間を縫って牧場に顔を出して、その子馬を見せてもらった際には

「ダンスパートナーによう似とるね」

と、オークスに臨む自厩舎のエースの名前を出して、子馬の将来性を称えていたのである。

 実は、白井師は、キャンペンガールの子を見せてもらった時点で、この子馬を自分の厩舎に迎え入れたいと狙っていた。・・・否、その時点どころか、キャンペンガールの現役時代から、既に目を付けていた。

『学士調教師の野望』

 白井師は、1978年に調教師免許を取得し、翌年に自厩舎を開業していた。従って、この時期には経歴的に調教師としてベテランと言ってよい時期に入っていたが、90年まではリーディングトレーナー20傑に入ったことがなく、苦労した時期が長かった。

 白井師は、当時の競馬界には珍しく、身内が競馬界にいたわけでもなく、一般の大学を卒業した後に競馬界へ身を投じ、そして調教師になったことが知られ、一部では「学士調教師」などとも呼ばれていた。

 しかし、調教師として手っ取り早く役に立つのは、学士号などではない。身内や先代からの付き合いといった人脈であり、開業当初の白井師には、その要素が決定的に欠けていた。

 自身に足りないものを早い時期から自覚していた白井師は、それを補うために、他の調教師をはるかに超える情報収集と研究に励んでいた。

「この時代は、庭先で取引をしていたから、子馬が生まれてからでは遅かった。他厩舎の馬にもアンテナを張っておかないと」

と後に語った白井師は、数ある他厩舎の中でも小林稔厩舎に「いい血統の馬が多い」として特に注目していたという。そして、その小林稔厩舎に所属し、「シラオキ系」「父マルゼンスキー」という彼好みの血統を持っていたキャンペンガールの存在も認識していた白井師だが、当時の血統水準からすれば、キャンペンガールを良血とみる人は少なくないだろう。そんな彼女が競走成績まで目立ってしまっては、その子馬を自分が欲しいと思っても、出る幕はなくなってしまう。

 ところが、キャンペンガールは、予期せぬアクシデントによって、未出走のまま繁殖入りするという。白井師は、

「これなら、子どもは自分の厩舎に来てもらえるかも」

と感じて、その後についても動向を追っていた。そして、マルゼンスキーの娘であるキャンペンガールとサンデーサイレンスという配合は、白井師にとっては特別に感じるものがある組み合わせだった。

『思い出の血統』

 もともと白井師がマルゼンスキーの血統に目を付けたのは、その父である最後の英国三冠馬Nijinskyllが好みだったからであるとされる。

 そんな白井師は、日本最大の生産牧場である社台ファームの総帥・吉田善哉氏とともに1989年11月にケンタッキーで行われた繁殖牝馬セールへ出かけた際、善哉氏からNijinsky llの直子である繁殖牝馬ダンシングキイについて競り落とすことへの意見を求められ、賛成していた。そして、この時善哉氏が渡米した本当の目的は、ダンシングキイの落札ではなく、大物競走馬を種牡馬として導入すること・・・サンデーサイレンス輸入であることも、彼は知っていた。

 サンデーサイレンスとNijinsky llという父母両面から、この血統に熱い視線を向けていた白井師は、

「ダンシングキイとサンデーサイレンスをつけるなら、ぜひ私に任せてください!」

と頼み込み、後のダンスパートナーへの布石を打っていた。

 そして、厩舎の成績が91年には13位、93年に8位と上位に入ったことで、ようやく経営を軌道に乗せつつあった白井師は、キャンペンガールもサンデーサイレンスが交配されたと聞いた際、ダンスパートナーと血統的に重なる部分が多くなるはずのこの血統に対し、思いを強めていたのである。

 白井師は、キャンペンガールの子で唯一競走馬としてデビューを果たしたオースミキャンディについては、自ら馬主を紹介したうえで自ら管理し、2勝を挙げさせていた。

「(幼駒の段階での彼女は)調教師としては、そこまで魅力的な存在ではなかった。でも、誰もが欲しがる馬を買ってもらっても、牧場の記憶には残らない。売るのに苦労する馬を買ってもらってこそ、『次』につながる」

 白井師がそこまで布石を打って臨んだのが、サンデーサイレンスとキャンペンガールの子だった。

 ただ、ここまでは白井師の思い通りになったものの、そうはならなかったこともあった。それは、馬主である。

 白井師は、日高大洋牧場から声がかかった場合、オースミキャンディを買ってもらった山路秀則氏に声を掛けようと思っていた。しかし、牧場には牧場の事情があり、白井師への打診は、顧客リストの馬主にセールスをかけた結果、購入を申し出ていた臼田浩義氏の所有馬として走らせるという条件付きだった。臼田氏は、1993年に馬主資格を取得したばかりの新進馬主で、日高大洋牧場の生産馬でサンデーサイレンス産駒のマジックキスも購入し、やがて北九州記念(Glll)を勝たせている。白井師は、臼田氏の所有馬として走らせることを承諾したものの、後々まで山路氏には申し訳ないことをしたと、後ろめたい気持ちを引きずったという。

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