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スペシャルウィーク本紀・日本総大将戦記

『命を託された春』

 キャンペンガールも懸命に命を繋いだが、やがて、彼女の容態は急変した。・・・それは、この日を過ぎれば子馬を助けるチャンスが生まれるという意味での「予定日」、5月2日早朝のことだった。牧場の人々は、決断を迫られた。

 キャンペンガールには、鎮痛剤とともに出産促進剤が投与され、出産の時期が早められた。しかし、長い闘病生活を送ってきた彼女には、もう自力で出産する体力すら残っていない。牧場のスタッフたちが子馬を引っ張り出すことで、彼女の出産を助けた。

 そして、キャンペンガールの5番子が、ついに産声を上げた。この時生まれた黒鹿毛の牡馬が、後に「日本総大将」と呼ばれることになるスペシャルウィークである。

 しかし、彼の出生を最初に彩ったのは、避けられない悲劇だった。馬の出産においては、病気等への抵抗力をつけるために初乳が極めて重要であると言われるが、出産で力を使い果たしたのか、キャンペンガールの衰弱は凄まじく、子馬に初乳を与えることすらできなかった。牧場の人々は、子馬をすぐに別の馬房へ連れていき、人工乳を与えるとともに、あらかじめめどをつけていた乳母の到着を待ち、乳を飲ませるための手配をしなければならなかった。

 そして、キャンペンガールは、スペシャルウィークを産んでからわずか5日目の5月7日、静かに息を引き取った。後のスペシャルウィークは、誕生と同時に母と引き離され、やがて失ったのである。

『人間に育てられた馬』

 生まれて間もなく母を失った子馬につけられた乳母は、サラブレッドではなく農耕馬で、気性も激しく、「決して母親向きな馬ではなかった」という。乳母なのに乳を与えることを嫌がるため、乳母が暴れて子馬を傷つけてしまわないように、授乳用のやぐらを組まなければならなかったほどである。

 だが、彼は、面倒を見てくれるわけでもない乳母ともなんとかなじんで・・・というより、折り合いをつけながら、日々を過ごした。日高大洋牧場の人々は、血統的な気性難も覚悟していたというが、この子馬は、母とも兄姉とも全く違って、のんびりしたおとなしい性格だったために、彼らを驚かせた。生まれた直後に母親を失い、さらに乳母も子馬の面倒を優しく見るタイプではなかった子馬は、他の子馬よりも人間に世話をされることが多かった。さらに、その素直さと賢さゆえに、人間からは可愛がられた。

 日高大洋牧場では、彼はニュージーランド出身の女性従業員に任せられていた。すると、女性従業員は、任せられた子馬の賢さと素直さに感動するあまり、尋常ではないほど彼を可愛がったという。しかし、彼女の子馬への傾倒は度を越しており、彼を厩舎に連れていくたびになかなか出てこなくなるため、他の馬を移動させる予定が狂うとして、宏氏からたびたび注意されていたという。

 後のスペシャルウィークは、特異な環境と境遇に直面したがゆえに、人間への信頼が強かった。その一方で、他の馬たちとは積極的に交わることも少なく、子馬は、離乳する以前から、自分で草を食べては走って、身体を作るような自立した馬だった。牧場のスタッフたちは、 

「この子は自分のことを馬と思っていないのかもしれない」

などと噂していたという。

『大器の噂』

 ただ、素直さと賢さは認められていても、競走馬としても期待できるとは限らない。4頭の兄姉の成績が壊滅的となれば、なおさらである。

 しかし、キャンペンガールの遺児は、調教が進んでくると、競走馬としての将来性も注目されるようになった。彼の走りは決して速いように見えず、遊びながら走っているように見えるのに、時計を見ると、同世代の馬たちの全力疾走並みのタイムを叩き出すのである。1度だけなら時計の測り間違いということもあるだろうが、何度やっても同じような結果となれば、それはまぎれもない現実だった。

「キャンペンガールの子が凄い・・・」

 そんな評判が、日高大洋牧場の人々の間で共有されるようになっていった。そして、その評判は、彼を競走馬として手掛けることになっていたもう1人の男にも、確かに伝わっていった。

 この子馬を競走馬として迎えることに決まったのは、JRAの栗東に本拠地を構える白井寿昭厩舎だった。白井師は、この子馬に対し、ある意味で日高大洋牧場の人々よりも古くから、大きな期待を寄せていた人物である。

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