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スペシャルウィーク本紀・日本総大将戦記

『未完に終わった母』

 レディーシラオキ自身は、58戦4勝という戦績を残して、日高大洋牧場へ戻って来た。すると、彼女が初子の出産を翌春に控えた85年には、タイヨウシラオキの子であるコーリンオーがスワンS(Gll)を勝ち、日高大洋牧場の生産馬として初めての重賞制覇をもたらした。

「やはり、シラオキの血は走るんだ!」

「タイヨウシラオキの子が結果を出した!レディーシラオキからも、きっと・・・」

 日高大洋牧場の人々が、亡き創業者の相馬眼を偲ぶとともに、シラオキ系への確信を強めたであろうことは、想像に難くない。

 人々の期待を背負ったレディーシラオキは、毎年高額な種牡馬と交配された。ノーザンテーストやリアルシャダイらとも交配された彼女だったが、8戦8勝、朝日杯3歳S優勝等の戦績を残して「スーパーカー」と呼ばれた持ち込み馬マルゼンスキーと交配された。そして87年に生まれた2番子キャンペンガールは、牝馬だったことから、やがて日高大洋牧場の基礎牝馬となるべき存在として、期待を集めていた。

 そんな期待馬キャンペンガールが未出走に終わったのは、デビュー前の事故によるものだった。厩舎の洗い場で暴れて転倒したことで故障してしまったキャンペンガールは、競走馬としては未出走のままで繁殖入りすることになったのである。

 キャンペンガールは、気性が悪かった。きょうだいや近親馬も似たような気性の馬が多かったというから、これは血統的なものであっただろう。ちなみに、キャンペンガールが未出走のまま繁殖入りすることになったというニュースを聞いて、その後の彼女に気に留めていた男がいたのだが、それはまた別の話である。

『狂気の血』

 こうして繁殖入りしたキャンペンガールだが、日高大洋牧場の人々が期待する通りの結果は、なかなか出なかった。それどころか、彼女の産駒成績は、むしろ悲惨なものだったと言ってよい。

 91年に初子を出産して以降、5番子となるスペシャルウィークまでの間、毎年順調な子出しを見せていたキャンペンガールだが、生まれてきた産駒はというと、初子と2番子は、いずれも競走馬にすらなれなかった。3番子は2勝を挙げたものの、4番子もやはり未出走に終わっている。まったくモノにならなかった3頭は、いずれも激しすぎる気性が災いしていた。

 さらに、キャンペンガールは、94年に入ると、時々疝痛を訴えるようになっていた。4年連続で出産していることもあって、この年は種付けを見送るという話もあったようだが、結局そうはならず、彼女はサンデーサイレンスと交配された。

 もともと気性難の一族であるキャンペンガールに、さらに馬産地で知らぬ者のない気性難のサンデーサイレンスを交配するというのは、大きなリスクと背中合わせである。しかも、この交配がなされた94年春といえば、サンデーサイレンスの初年度産駒がデビューする直前のことである。すなわち、サンデーサイレンスが後に種牡馬として見せた規格外の能力は、まだ現実のものとなっていない。

 しかし、正治氏の三男であり、日高大洋牧場を任せられていた小野田宏氏は、

「ゆったりした馬体のキャンペンガールに、あのサンデーサイレンスをつけたら、どんな子が生まれるんだろうと思ったら、どうしてもつけてみたかった」

という「誘惑」に勝てなかったという。正治氏の死後、日高大洋牧場はオーナーブリーダーからマーケットブリーダーに方向転換してはいたものの、強い馬を作りたいという夢と野心は、脈々と引き継がれていた。

『命の選択』

 しかし、日高大洋牧場の夢と野心は、思わぬ方向へと漂流していった。そこまで深刻なものではないと思われていたキャンペンガールの疝痛が、94年暮れころから、みるみる深刻なものになっていったのである。しかも、今度の症状は一過性のものではなく、定期的に繰り返され、悪化する一方だった。

 キャンペンガールの様子を心配して検査してみたところ、獣医の診断では、キャンペンガールの腸の一部は、既に壊死していたという。

 それでも、5月中旬とされていた出産予定日に向けて療養を続けていたキャンペンガールだったが、出産予定日まで約1ヶ月となった時期になって、さらに激しい疝痛に襲われた。そして、その段階で下された診断は、残酷なものだった。キャンペンガールの生命は、もう助からない―。

 だが、そんな運命の中に、わずかな救いがあった。

「あと2週間ほど持てば、子どもだけは助かるかもしれない・・・」

 自身の生命が助かる可能性はもはやなく、しかも激しい苦痛に日々さいなまれていたキャンペンガールの状態は、安楽死となってもおかしくないものだった。・・・もし彼女の胎内に、サンデーサイレンスの血を引く子どもがいないのであれば。

 サンデーサイレンスの初年度産駒は、その前年に競馬場でデビューし、フジキセキが無敗で朝日杯3歳S(Gl)を制するなど、圧倒的な成績で3歳リーディングに輝いていた。95年に入ってからも、フジキセキが屈腱炎を発症して引退したにもかかわらず、皐月賞(Gl)はジェニュイン、タヤスツヨシがワン・ツーフィニッシュを決め、桜花賞(Gl)も優勝こそフォティテン産駒のワンダーパヒュームに譲ったものの、ダンスパートナーが2着、プライムステージが3着に入った。

「もしかすると、『種牡馬サンデーサイレンス』は、日本の競馬史を変える歴史的な存在なのではないか・・・」

という可能性がはっきりと意識されつつあったこの時期には、サンデーサイレンスの子の価値は、それ以前とは比べ物にならないほど高まっていたのである。・・・日高大洋牧場の人々が、失われることが確定した母親の生命より、残される可能性がある子の希望に賭けるのも、むしろ当然のことだった。

 日高大洋牧場のカレンダーには、キャンペンガールのために、5月2日に新たに○が付けられた。それは、獣医が「この日まで母が生きていれば、子馬を生かすことができる」と見立てた日であり、その後の牧場の人々の目標は、「キャンペンガールが子馬を出産できるまで死なせないこと」になった。・・・彼らの決断は、キャンペンガールの苦痛が延ばされることと同義にほかならなかったし、彼ら自身、そのことの意味を自覚していた。

「済まない、本当に済まない・・・」

 日々弱っていくキャンペンガールに心の中で詫びながら、出産の時を待ったという。

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