TOP >  年代別一覧 > 1980年代 > タレンティドガール列伝 ~秋の淀に咲いた才媛~

タレンティドガール列伝 ~秋の淀に咲いた才媛~

『路地裏の少年』

 1970年に18歳で騎手免許を取得した蛯沢誠治騎手は、年齢、キャリアとも既にベテランの域に入り、実績的にも前年までに通算500勝を達成したことで、円熟期を迎えようとしていた。・・・しかし、そんな彼がこの日まで歩んできた騎手人生は、決して平坦なものとは言い難かった。

 もともと馬と関係のない家庭に生まれた蛯沢騎手が騎手を志したのは、やはり騎手を目指しながら体格が大きすぎて夢をあきらめたという兄の影響を受けたからだという。しかし、そんな彼の志の固さたるや鉄の如しで、上京して競馬界の門を叩いたのは、なんと12歳の時だった。

 そんな蛯沢少年の後見人となったのは、1964年に28歳4ヶ月という当時としては最年少記録となる若さで調教師免許を取得して間もない成宮明光調教師だった。蛯沢騎手の兄から話を聞いて

「お前の弟は、俺が面倒を見よう。中学には、うちから通えばいい」

と言った成宮師は、蛯沢少年を自分の家に住み込ませて中学に通わせるとともに、競馬のことを教えていった。成宮師は、16歳年下の若者を非常にかわいがり、蛯沢少年もその恩に報いるように騎手としての天性を目覚めさせていった。

 やがて騎手としてのデビューを果たした蛯沢騎手は、初年度に13勝を挙げたのを皮切りに、順調に勝ち鞍を伸ばしていった。4年目となる73年には、カネイコマで初めてダービー騎乗を果たしただけでなく、年間通じて43勝をあげ、早くも通算100勝に到達した。その後も75年まで3年連続で成宮厩舎の所属馬とのコンビでのダービー参戦を果たし、日の出の勢いで躍進する成宮厩舎と歩調を合わせるように、将来の競馬界を担うであろう若手騎手として世に認められるようになっていった。

『暗転』

 しかし、順風満帆であるかに見えた蛯沢騎手の人生を待っていたのは、思わぬ蹉跌だった。1975年6月5日・・・蛯沢騎手の24回目の誕生日当日、彼の人生は暗転した。当時、世間を騒がせていた運転免許の取得不正疑惑に関し、蛯沢騎手の名前も伝えられたのである。

 蛯沢騎手を呼び出し、

「誰かの間違いじゃないのか?」

と祈るような思いで尋ねた成宮師だったが、蛯沢騎手から返ってきた答えに、成宮師の祈りにも似た願いは、砕け散った。

「いえ、僕です・・・」

 それまで、成宮師は蛯沢騎手について

「馬に乗ることしか知らない奴だけど、馬乗りの才能は、たいしたもの」

と評していた。「馬に乗ることしか知らない奴」という言葉をほめ言葉として与えていた成宮師だったが、蛯沢騎手に馬、競馬を教えることばかりに夢中になって、それ以前に必要なことを忘れていたのではなかったか・・・。

 成宮師の慟哭は深かった。成宮師は、この時思わず、蛯沢騎手を殴ってしまったという。彼の拳は、蛯沢騎手ではなく、成宮師自身の心に向けられたものだったのかもしれない。

『人知れぬ涙』

 その後、蛯沢騎手は騎手免許を返上し、美浦から姿を消した。この年も約5ヶ月間で13勝を挙げた有望な若手騎手は、競馬の表舞台から消えた。

 同じ頃、成宮師の親族が経営するある牧場に、1人の新しい牧夫の姿があった。・・・それが蛯沢騎手だった。成宮師は、若くして騎手という華やかな仕事に就き、あまりに順調な人生を送りすぎたゆえに自ら落とし穴に落ちた蛯沢騎手に反省を促すために、自分の目の届く牧場で、下積みとして一からやり直させることにしたのである。

 騎手・・・ファンの注目と喝采を浴びる仕事に慣れていた蛯沢騎手にとって、一牧夫としての仕事は、様々な意味で「きつい」ものだった。重労働の上に単調で、しかも失敗だけは目に見える形でふりかかってくる。何よりも、騎手のように周囲にちやほやしてもらえることなどまったくない。収入も10分の1以下に減った。馬に関わる仕事という点では同じでも、蛯沢騎手の生活はまったく変わった。

 しかし、蛯沢騎手は、黙々と牧夫としての生活を受け入れた。他に楽しみもない生活の中で、蛯沢騎手の唯一の楽しみとなったのは、偶然見つけたカラスの巣から盗み出した卵をひそかに育てることだったという。

 蛯沢騎手は、1羽だけ育った子カラスを眺めながら、これまでの己自身を省みる機会を得た。

「これまでの自分は、いったい何をしていたんだろう・・・」

 蛯沢騎手は、騎手として実績を上げていくうちに自分の中に生じていた慢心に気づき、それを恥じた。それと同時に、馬に関わる仕事しかできない自分自身も痛感し、心から自分自身の過ちを悔いた。・・・そんな蛯沢騎手を見守っていたのが、成宮師だった。

『復活』

 蛯沢騎手が更生しつつあることを確信した成宮師は、ひそかに様々な関係者を訪ね、蛯沢騎手の復帰運動を始めた。

「馬に乗ることしか知らない蛯沢に、もう一度チャンスを与えたい・・・」

 そんな思いに燃える成宮師の情熱に、競馬界の人々は、次第に心を動かされていった。

 蛯沢騎手がターフへ帰ってきたのは、1978年3月のことである。蛯沢騎手の真摯な反省が認められたこと、事件自体が競馬とは無関係だったこと、特定の被害者が存在しない行政法規違反だったこと、そして何より、騎手に寄せられる視線が今ほど厳しくなかったという時代・・・それらが蛯沢騎手に幸いし、彼は2年9ヶ月ぶりにターフへと戻ってくることを許された。

 成宮師は、蛯沢騎手が復帰した週のメインレース・中山記念で、彼のために早速カネミカサという馬を用意した。カネミカサは、蛯沢騎手が牧夫として担当し、成宮厩舎へと送り出した馬だった。・・・そして、蛯沢騎手はそのレースに勝った。

 それからの蛯沢騎手は、失った信頼を取り戻すために、ひたすら励む毎日となった。成宮師も、蛯沢騎手のためにいろいろな馬主や調教師たちに頭を下げた。

「ウチの蛯沢を頼みます・・・」

 蛯沢騎手は、成宮師の助けもあって手にした数少ないチャンスを生かすことで、調教師や馬主たちの信頼を取り戻していった。蛯沢騎手の騎手人生のハイライトのひとつは、1984年に成宮師が依頼したビゼンニシキでの春のクラシック戦線である。結果的に敗北したとはいえ、蛯沢騎手とビゼンニシキが、皐月賞で後の「絶対皇帝」シンボリルドルフを相手に見せた死闘は、歴史に確かな記憶を残している。

 タレンティドガールを管理する栗田師は、1980年に調教師試験に合格する前までの間、成宮厩舎で調教助手を務めていた。彼もまた、競馬の世界を志した際には、成宮師の世話によってある牧場で牧夫の仕事をして、馬に接する基本を学んだ経験があった。蛯沢騎手のこともよく知っていた栗田師は、自らが送り出すタレンティドガールを、彼の手綱に委ねることにした。

1 2 3 4 5 6
TOPへ